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◆4月1日のNHK歴史秘話ヒストリアに疑問と疑念。


【歴史に忠実にとは言わないが、誤解を招くようなヒストリーは如何なものか】

NHKは、昨年の[功山寺挙兵]に続き、また、事実と異なるような歴史秘話ヒストリアを作った。

昨年、[功山寺挙兵]の出典を聞いた時は、民家に伝わる【伝聞録から】と言われていた。

功山寺挙兵は、若者達の暴走と描き出していたのが気に掛かった。


[功山寺挙兵]は決して若者達の暴走で無かった
事は、歴史が証明している。


それを覆さんとばかりの映像には疑念を抱いた。


◆【長州奇兵隊】の基になっているものは尊王思想と国防意識。
http://sunshine7.blog9.fc2.com/blog-entry-960.html


今回もまた、不可思議な点がある。

・ザビエルに大きく貢献した、(長年、皇室と縁の深かった)大内氏が出て来ないのだが?

・ザビエルが京都に行った頃の武将には、まだ毛利元就は居なかったのだが?

山口と、大内氏が軽んじられている事に、強い疑念を抱く。




フランシスコ・ザビエル(Wikipedia より抜粋)】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%AB

1549年8月:鹿児島市祇園之洲町に着く。

1549年9月:一宇治城で島津貴久に謁見、宣教の許可を得た。だが、仏僧達の不満により禁教となり、京都に向かう。

1550年8月:ザビエル一行は肥前平戸に入り、宣教活動を行った。


【1550年11月】:周防山口に入り、無許可で宣教活動を行う。
やがて大内義隆にも謁見するが、男色を罪とするキリスト教の教えが義隆の怒りを買う。

1550年12月:岩国から海路で京都に向かう。

1551年1月:京都に到着。小西隆佐の歓待を受ける。
インド総督・ゴアの司教の親書を携え、後奈良天皇・足利義輝への拝謁を請願するが、当時の御所・京都は荒廃地と化して居り、叶わず。

【1551年3月】:京都から、山口を経て、平戸に戻る。

【1551年4月】:三度目の山口。後奈良天皇に親書や数々の献上品を携えて大内義隆に再謁見。

大内義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めた。

また、大道寺をザビエル達の住居兼教会として与えた。これが、日本最初のキリスト教会と言われている。

ザビエルは、この大道寺で説教を行い、約2ヵ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人。

また、山口での宣教中、ザビエルたちの話を座り込んで熱心に聴く盲目の琵琶法師がいた。

彼はキリスト教の教えに感動してザビエルに従い、後にイエズス会の強力な宣教師となるロレンソ了斎となった。


1551年09月:豊後(大分市)にポルトガル船が来着したので、山口での宣教をトーレスに託し、豊後へ赴いた。
この時点での信徒数は600人を超える。

1551年09月:豊後に到着。大友義鎮に迎えられ宣教を行ったが、これが後に大友氏瓦解の一因とも言われている。

1551年11月:日本人青年4人を同行させインドに戻る。

1552年02月:インドのゴアに到着。同行のベルナルドは学問を修めてヨーロッパに渡った最初の日本人となった。

1552年09月:中国の上川島に到着。病を発症。

1552年12月:46歳で亡くなる。




毛利元就(Wikipedia より抜粋)】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E5%B0%B1

1497年(明応6年)3月:安芸の毛利弘元と福原氏との間に次男として誕生。幼名は松寿丸。

1500年(明応9年):幕府と大内氏の勢力争いに巻き込まれた父の弘元は隠居し、毛利興元に家督を譲る。弘元と松寿丸は多治比猿掛城に移る。

1506年(永正3年):松寿丸10歳の時、父・弘元が死去。松寿丸は家臣によって所領を横領される。

1511年(永正8年):松寿丸の元服。多治比(丹比)元就を名乗る。

1525年(大永5年):家督相続問題を契機として、元就は尼子経久と次第に敵対関係となり、大内義興の傘下に入る。

1529年(享禄2年):尼子氏に通じた高橋興光ら高橋氏一族を討伐。安芸・石見の領土を手中にする。

1533年(天文2年):大内義隆より、「毛利(大江)元就を、応永の先例に倣って官位を授けるように」と、後奈良天皇に申し出が為される。

後奈良天皇に「毛利には大内氏の後ろ盾がある」ことが示された事で、毛利元就は安芸国の正式領主となる

1537年(天文6年):大内氏へ長男の毛利隆元を人質として差し出し、大内との関係を強化。

1539年(天文8年):大内氏が北九州の少弐氏を滅ぼし大友氏とも和解したので、安芸武田氏の佐東銀山城を攻撃。
城主武田信実は若狭へ逃亡後、出雲の尼子氏を頼る。


1540年(天文9年):3万の尼子軍に攻められる(吉田郡山城の戦い)。元就は僅か3000の寡兵で籠城して尼子氏を迎え撃った。
福原氏、宍戸氏、大内氏の援軍・陶隆房の活躍で、元就は戦いに勝利し、安芸国の中心的存在となる。

また、安芸武田氏傘下の川内警固衆を組織化し、後の毛利水軍の基礎を築いた。


1542年(天文11年):大内義隆を総大将とした、第1次月山富田城の戦いに元就は参戦。
だが、吉川興経らの裏切りや、尼子氏の所領奥地にまで入り、兵站を断たれた。
大内軍は敗走し、元就も富田城攻撃に大敗し危機一髪で安芸に帰還。

大内・尼子氏の力の低下を見た元就は、安芸の小領藩から西国統治を目論む。

1544年(天文13年):大内義隆に、小早川氏が「元就の三男・徳寿丸(後の小早川隆景)養子に出すよう」に頼み込む。
元就は大内義隆の頼みを断ることは出来ず、徳寿丸は小早川家に養子となる。

1547年(天文16年):妻・妙玖の実家の吉川家へ次男の元春を送り込む。
これ等により、毛利氏が一大勢力となる。
安芸・石見の吉川氏、安芸・備後・瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏、両家の勢力を取り込み、安芸一国の支配権をほぼ掌中にした。


1549年(天文18年):吉川元春と毛利隆景を伴い、山口の大内氏殲滅へ。

大内家では、陶隆房を中心にした武闘派と、相良武任を中心とした文治派の対立が起こっていた。
当主の大内義隆は、月山富田城で負けて以来、戦に関心を持たなくなっていた。それが不満な陶隆房が毛利元就と、大内家殲滅へと結託した。


【1551年(天文20年)】:西国最大の大名・大内義隆が家臣の陶隆房の謀反によって殺害され、養子の大内義長が擁立される(大寧寺の変)。

元就は、この当主交代に同意。
元就はこれを機に、安芸の大内義隆派の者達を殲滅し、地域の支配権を掌握した。
尼子晴久の安芸への侵入を、大内氏の家臣、江良房栄らとともに撃退。

この戦後処理で、毛利氏の勢力拡大に危機感を抱いた陶隆房は、元就に支配権の返上を要求。
元就はこれを拒否したため両者の対立する。

この時、陶隆房の大内軍30,000に対して、毛利軍は5,000。
正面から戦えば勝算は無い。
更に毛利氏と同調している安芸の国人領主たちも大内・陶氏の圧迫によって動揺し、寝返る危険性もあった。

そこで元就は、得意の謀略により大内氏内部の分裂・弱体化を謀る。

1554年(天文23年):出雲の尼子氏の内紛が勃発。毛利元就は、この内紛を利用する。
陶晴賢(隆房)の家臣の江良房栄が「謀反を企てている」というデマを流し、本人の筆跡を真似て内通を約束した書状まで偽造し、江良房栄を暗殺させた。

背後からの危惧を取り除いた元就は、陶晴賢に対して反旗を翻す。

1555年(弘治元年):陶晴賢は大軍を率いて山口を出発。
厳島の毛利氏の宮尾城を攻略すべく厳島に上陸した。
しかし厳島周辺の制海権を持つ村上水軍が毛利方に付き、陶晴賢は自刃。
大内氏はその勢力を大きく弱め、衰退の一途を辿って行く。

1557年(弘治3年):さらに元就は、大内氏の当主義長を討って、大内氏を滅亡させた。
これにより毛利元就は、九州を除く大内氏の旧領の大半を手中に収めることに成功した。

1566年(永禄9年):長年、元就の目の敵であった尼子軍を降伏させる。

こうして元就は一代にして、中国地方8ヶ国を支配する西国一の大名にのし上がった。




大内義隆(Wikipedia より抜粋)】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E7%BE%A9%E9%9A%86

義隆は文化的関心が強く、文治主義的な戦国大名として知られている。

三条西実隆などの文化人とも交流し、和歌や連歌、芸能など公家文化への関心を示す。

また、朝廷への進物を行って官職を望み、束帯姿で牛車に乗るなど貴族趣味を持っていたと言われる。

学問においても古道を好む事や花押の形式などから、復古主義的な性格を持った人物であったと考えられている。

しかしそれは大内氏歴代に見られる傾向であり、また、この時代の山口は西の京として繁栄の極みを迎えた。

政策においても保守的で、奢侈禁止令や段銭徴収に関する法令を発布する。

寺社の復興に寄進し、大宰大弐となると大府宣を布告した。

さらに義隆とその家臣団の官位も他の戦国大名のような自称官位ではなく、朝廷に奏請して賜っている本当の官位である。

このように、復古的な政治が多く見られる。


■中国の明や李氏朝鮮と交易を行い、大内氏は管領家の細川氏と抗争して日明貿易(勘合貿易)を独占する。

朝鮮からは『大蔵経』などを典籍を輸入し独自に大内版を出版する。

義隆は山口を京都のような条坊制の都市に整え、城郭は構えずに大内館を居所とした。

キリスト教の宣教師で来日していたイエズス会士 フランシスコ・ザビエルを招いて山口における布教を許可するなど、野心に富み、開明的な人物であった。


義隆が冴えを失ったのは武断派である陶隆房らが強行した尼子攻めの敗北が原因でもあるとされている。




【4月1日のNHK歴史秘話ヒストリアに疑問と疑念】

2015年4月1日(水)の[NHK歴史ヒストリア]では、ザビエルに最も強い影響力を与えた[大内義隆、大内家]は、全く出て来ない?

各地の大名の中では、最も皇室に縁のある大内氏が、だ。

「NHKらしい」と言えば、それまでだが(笑)

大内氏~毛利氏へと受け継がれた「皇室への畏敬」が、明治維新へと繋がったのだが。

その為に、両者の年表を作ってみた。


■年表を見て頂いたら解かると思うが、1551年にザビエルが京都に行った時の戦国武将には、まだ歴史の表舞台に毛利元就は居ない。

1551年1月頃の毛利元就は、まだ、大内義隆の家来だった。

毛利が西国一の大名になったのは、1566年(永禄9年)に尼子氏を攻め滅ぼした時からであり、すでに、その時にはザビエルは亡くなっている。


だから、ザビエルの話に出てくるはずの大内義隆が出ずに、ザビエルとは無関係の毛利元就が語られている事に、異を唱えたい。




[追記:4/3]

この話を妻に語れば、『毛利元就だけじゃなく、織田信長も、武田信玄も、まだ戦国武将になっていなかったのでは?』と言う。

言われて「ハッ」とした(汗)


ザビエルが京都に行った1551年は、下記の通り。

・織田信長:1551年(天文20年):父・信秀が没したため、家督を継ぐ。

・武田信玄:1553年(天文22年)が第1次川中島の戦い・・なので、その2年前だ。


当時は、足利幕府の力が落ちて、各地で大名達の勢力争いが始まった頃だ。

毛利元就はもちろん、織田信長も、武田信玄も、まだ、地方武士に過ぎなかった。

それをあたかも、毛利、織田、武田達の戦で、京都は【見る影もなくなっていた】ように映し出していた。


確かに京都の混乱は酷く、それゆえに公家達は山口まで逃げて来ている。

だが、当時の京都の混乱を起こしたのは彼等では無い。

足利幕府には将軍職が務まらないほど弱体したがゆえだ。

今の世相と非常に似ている。


■普通の時代劇なら、こうした事は言わない。

歴史秘話ヒストリアだからこそ、時代考証や背景は正確にと申し上げている。




【私の歴史秘話(先祖代々よりの伝聞録)】


■今、NHKが放映している[花燃ゆ]の杉家は、大内義隆と京都公家の奥方の間に産まれた子供(環丸:たまきまる)の子孫だ。

環丸の環から氏名(うじな)を玉木氏とし、屋号名としていろんな名を付けていた。

杉家の本家は玉木氏であり、大内家と京都公家の末裔だ。

当然、[杉文]、[吉田松蔭]、[玉木文之進]達も、
大内義隆と京都公家の奥方の間に産まれた子供(環丸)の子孫だ。

世代口伝の為、文献は無いが、各屋に大内家の証拠品(過去帳、刀、兜、鎧、等)が残されている。


■そんな事より、私が言いたいのは、「天皇家守護職にいた大内氏。その子孫達が公武合体を為し、明治維新の引き金になったと云うこと。

そこにあるものは血筋では無い。志だ。



ちなみに大内氏は、室町時代の頃から【皇族を護る役目・役割】を頂いている。(外敵から国を護る役目・役割が[征夷大将軍])

ゆえに、毎年、皇室に貢物を差し出していた。

大内義隆の妻は京都公家であり、ザビエルが来た頃の山口は【戦乱から逃れて来た公家達で溢れていた】。

上記のWikipedia歴史には、
「1550年11月:周防山口に入り、無許可で宣教活動を行う。やがて大内義隆にも謁見するが、男色を罪とするキリスト教の教えが義隆の怒りを買う」
・・と有るが、本当だろうか?

私は、そのようには教わってはいないのだが?

逆だ。

皇室と縁のある大内義隆が、「布教を許し、(京都の皇室に)推薦した」と聞いている。

それがゆえに、ザビエルは【3度も山口に来ている】のでは?




どちらにせよ、ザビエルの手紙の内容の多くは【山口での暮らし】では無かったのか?

確かに、布教を許可し、日本最初のキリスト教会を献じたのは大内義隆だが、[大寧寺の変]によって、親族家臣の陶隆房に殺された。

だが、陶隆房(陶晴賢)とて大内一族。

だからこそ、1551年(天文20年)に陶隆房(陶晴賢)がクーデターで当主になっても、【ザビエルは追い出される事も無く過ごした】のだろう。

そんな大内氏や山口を無視したような番組作りは、如何なものか?





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