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兄弟の縁


 
 【過去記事移動】 過去、このブログに書いている中で、今でも使えそうな話を移動します。 - 2007年7月31日のブログより。



参議院の選挙が終わった。

あの結果が民意であれば仕方がないが・・。

今回の選挙は、国民の恨み心、裁き心、不信感・・ドロっとしたものが渦巻いていた。




私には弟が居るが、性格から考え方まで正反対だ。

妹は意見も合うし、同じ見識を持っている。


■だが、母と弟は違う。

善人だという人柄だけを云えば、弟がトップかも知れない。

嫁いだ家に我が身を捨てて、身を粉にして働いた母も、善い人だろう。

だが、ふたりとも被害者意識が強い。


■かなり前になるが、母を車に乗せていた。

交差点にあった家が解体されていた。


私と母は、同時に言葉を発した。

「おっ、これで見通しが良くなって事故が減る」

『あらら、この後の家は台風が直接当って大変だね』


親子でも、こんなに違う(笑)

どちらが正しいというものでは無く、考え方の違いだ。




弟は、今回は絶対に民主党だと言って耳を貸さない。

理由はアレコレ言っていたが、被害者意識と強者叩きが見え隠れする。


■弟が絶頂期にあった時、頻繁に言っていた言葉が、『これからは弱肉強食の時代だ、強くなければ負けてしまう』だった。

「その考え方は違うぞ」
と言ったが、『兄貴は古い』と言われたものだ。


そして、絶頂期から転落して、ドン底を味わうようになった頃には、『人は皆、平等じゃなくては』と言い出した(笑)

弱肉強食を唱えて、負けて喰われる側になったら、平等主義に転換した。


■一昨日も妹と話したが、何が弟をそうさせたのだろう・・。

私が2年間家を出て松山で働きながら夜学に行っていた時、弟は高1。

かなり荒れていたと妹に聞かされた。


『○兄ちゃん(弟)、学校で喧嘩して退学寸前だったのよ』

「喧嘩の話は知っているが、相手は暴力団に入った○○のことか?」

『うん、あの頃の○兄ちゃん、自分がセーブ出来なかったみたい』


「俺が居なかったからか?」

『お兄ちゃんの代理は、○兄ちゃんには耐えられなかったみたいよ』

「・・そうか、・・すまなかったな」


たった、この2年間で弟は自由奔放な明るさを失って居た。

あの過酷な時期に、自信を失ったのか、耐え切れなかったのかと思うと可哀想になる。




私は大人しい子供で、心を患うくらい繊細な男だった。

だから、奔放で気ままな弟が羨ましかったものだ。


それが、逆境に置かれ、崖っ淵に立たされると、逆転した。


■私は、気ままな弟をいつも羨ましく感じていたが、ある事で、弟に聞いたことがある。

「お前、俺に対してコンプレックス持ってるだろう、いつからだ?」

最初からだ!何やっても兄貴には適わない・・。自分が惨めになる』

・・驚いて次の言葉が出なかった。


3つも歳が違うのに勝とうとしていたのか?

何のために?


■私の中学時代は心の病で勉強に集中出来なかった。

それでも何とか上位をキープしていた。

母親がうるさくて(笑)

だけども弟は猛勉強して、中学卒業時には優等生として表彰されているじゃないか!

小学時代には健康優良児だぞ!


私の方が羨ましく思っているくらいなのに。

予期もしなかった弟の言葉は、今なお私の心に残っている。


■弟は、私の中に何を見ていたのだろう、見ているのだろう。

はっきり言ってふたり並んだら、絶対に他人は弟の方が善人だと言うだろう(汗)

私は、本来は穏やかだと思うが、厳しさを内面に持っているようだ。

そんな子供では絶対に無かったのに、揉まれてヒネクレたのかな(笑)


■正直なところ

一家を支えて行くには、優しいだけでは潰れそうになった。

何度も何度も。

絶対に自分を潰してはならないと、自分自身を甘えさせない厳しさで乗り越えて来た。


断言しても良いが

他人に厳しく当る時は、単なる感情で言って居るわけでは無い。

放って置くと、いろんな弊害が出て来るように思えた時、私は厳しくなる。

だけども、その何倍もの厳しさを自分に科しているつもりだ。


■一家の、一族のリーダー的存在になってしまった今、本家の、あの怖いおじいちゃんの心が解るようになった。

これから歳と共に、頑固になって行くかも知れないが、頑固親父にはなりたくない。


信念は貫き通したいが、心の柔軟さは持ち続けたいものだ。


それには反省心が欠かせない。

じつは

こうして思い出し書きながら、反省をしている。





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Trackback [0] | Comment [4] | Category [自分記] | 2007.07.31(Tue) PageTop

◆【自分記:第1回】お坊ちゃんから奈落の底へ


 
 【過去記事移動】 過去、このブログに書いている中で、今でも使えそうな話を移動します。 - 2013年11月19日のブログより。



【転げ苦しむ父】

昭和40年8月20日の昼過ぎ。

父親が、「痛い!痛い!」と、激しく転げ回っていた。


「どうした!父さん!」と、大声で叫び、力尽くで押さえる私をはねのけて、畳の上を転げ回る父親。

ただ事では無かった。

見たことの無い父親の姿に驚愕する。



■だが、とんでもない非常事態なのに、家の中には母親の姿は無かった。

父が、こんなに苦しんでいるのに、母はどこに居るのか!



■近所の親戚T家に助けを求めて走った。

「おじさん!助けて!親父が苦しんでる!病院に連れて行ってよ!」

『なんだと!』

叔父は、すぐに車を出して駆け付けてくれた。



■T家に行く途中で、母親と近所のおばさん達が井戸端会議をしていた。

「何してるんだよ!親父が苦しんでるんだよ!すぐに帰ってよ!」


だが、私の必死の叫びは、母親達には伝わらなかった。

母親は、「息子が、なにやら騒いでいるから、帰るね」と、軽く思っていたようだ。



T家の叔父と一緒に帰ってみると、父親の姿は無かった?


「親父は?」

「ひとりでM病院に行ったよ」と、のんびりと話す母親。

「あの状態で、ひとりで行かせたの!無茶だ!」


私は、母親の現状認識に怒りすら憶えた。



■グスグズしてはいられない。

「叔父さん!M病院に連れて行って!」

「よし!」


私と叔父の慌てようを見て、始めて母親も異変に気付いたようだった。


だが、軽トラックなので二人しか乗れない。私達は母親を置いてM病院に駆け付けた。

父親は、すでに個室に入院していて、点滴を受けていた。

転げ回るような痛みは無いようだった。

一安心だった。



母親もタクシーで駆け付けて、やっと現状が分かったようだ。

叔父は入院用具を揃えてくれて、親戚中に電話をしてくれたようだ。ゾロゾロと親戚の者達が駆け付けてくれた。


だが、その時にはまだ、父が死に至る病だとは、誰もが思っていなかった。


病室から、父親の状態の説明を受ける母親の姿が見えていた。

・・が、母親が泣いている?



■薬剤師をしているM家の叔父が、それを見ながら静かに言った。

泣いている母親を指しながら、「Yちゃん、お父さんの病気は、あの通りなんだよ。命に関わる心筋梗塞という病気なんだよ。覚悟してくれと。


父も、このM叔父も、軍医だったので、共に病気には詳しかった。

だけども、母親が泣いている姿を見ても、M叔父の言葉を聞いても、とても私には実感が湧かない。




■その後は、M伯母(父の姉)が中心になって、24時間体制の看病が始まった。

当然私も、学校が夏休みだったので、殆ど病室と家を自転車で往復する日々が続いた。


父親は忍耐強い人なので、痛みを我慢していたのか、笑顔で会話も出来るまで回復していた。(ように見えていた)

父親が、御見舞いのバナナを取って隠す姿を見て、M伯母は「あんなにバナナが欲しいのかね」と言っていたが、私には父親のイタズラだと分かる。


自らが瀕死状態にありながらも、そうやって私達を和ごませてくれる。

・・そんな父親だったのだ。



■私は朝から晩まで父親に付き添い、夜には家に帰っていた。

私が自宅に帰ると、夜には中学生の弟・妹の為に、近所のいとこ(女性)達が泊まりに来てくれていた。

そんな風景から見ても、私は父親は治るものとばかり思っていたし、実際に容態は安定していた。

回復しているとばかり思っていた。




【急変】

同年8月29日の昼過ぎ。

父親の容態が急変した。


おかしい。

朝は、とても元気だったのに・・。


父親の顔から赤みが消えて、手足が冷たくなり始め、会話も出来なくなっている。

私は、父親のベットに上がり、ドンドン冷たくなる父親の手足を、必死でマッサージしていた。


「親父!どうした!返事しろ!」


「なぜだ!朝は、あんなに元気だったのに!」


私は、まだ、父親が死ぬとは全く思ってもいなかったのだ。


弟と妹も駆け付けて、きょうだい3人で父親の手足をマッサージし続けていた。


私達のその姿を見て、看護婦さんも泣いていた。

その時の看護婦さんは、私達の姿を見て、「看護婦をやめたくなった」と言われたようだ。


だが私は、なんとかして父親の手足を温かくしようと、他には何も考えられなかった。

そんな病院内の私達は知らなかったが、「父親が危篤」と、親族や近所の人達には伝えられていたようだ。





同年8月30日の早朝。

半日間、マッサージしても、しても、冷たくなる一方の父親の手足。


「なぜだ!どうして温かくならないんだ!」と叫びながらも、父の回復を信じていた。


そして、医者が「ご臨終です」と言ったトタンに全員が泣き崩れたが、私だけは唖然としたままで、現実を受け入れることが出来なかった。


父の体が、看護婦さん達の手で拭かれ清められる姿を見て、やっと私は父の死を悟った。

涙も出なかった。



■父の遺体を車に乗せて自宅に付くと、
自宅の前の道路は、人・人・人で一杯だった。

泣き崩れる母親を抱えるように降りた私は、その人達に一礼をすると、全員が礼をされて、泣き出された。



■後から分かったことだが、父親は、8月29日の昼前後に、月末の手形決済に付いて広島の取引先に電話をしていたようだ。


いつも誰かが傍に居たのだが、母親が配膳を下げに行った隙に、私も伯母も家に帰って居た時に、誰も居ない時間があったようだ。


その隙を狙って、父親は病室を抜け出して電話を掛けていた。


自営業の辛いところで、父親は月末の手形決済が気になって仕方が無かったのだろう。

何とかしようとして、病室から歩いた為に命を落とすことになってしまった。


もっとも、当時の医療では、心筋梗塞の殆どは助からなかったので、結果は同じになったかと思う。



ちなみに私も、父親と同じ心筋梗塞をしている。

それも父親と同じ8月20日に。

40年の歳月は同じ病気でも生死を分けるものとなった。





同年9月1日。

父親の葬儀は慌ただしく始まり、慌ただしく終わった。

何もかもが産まれて初めての経験だった。


母親は、ただただ泣き崩れるだけで、親としての役目は、まったく出来なかった。




■祖母は気丈な人だが、
「私と代わってあげたい」と涙する。

「そんなこと考えないでよ!」と、私と祖母は抱き合いながら泣いていた。


そんな中でも、中2の弟は、父親の煙を見ながら「早く焼けないかな、早く焼けないかな」と無邪気にはしゃいでいる。

(こいつ、何を考えてるんだ)と、無性に怒りが込み上げて来た。



■私には、父亡き後のことを考えると、母親のように泣き崩れる余裕も、弟のように無邪気にはしゃぐ余裕も無かった。

残された家族は、多重人格で、ヒステリーパニックを起こし、プレッシャーに弱い母親。

幼い中2の弟と中1の妹。

そして母親と険悪な仲の耳の聞こえない祖母。

そして私の5人。



■当時、高2の私が喪主で会葬者達に挨拶をした時、多くの人達が泣いて居られたのを憶えている。

16歳で喪主として務める私の姿を見て、「あんなに悲しい葬式は無かった」と、後から近所の人達から聞かされた。





ここまで見ると、【気丈】な私のように見えると思うが、違う。

それまでの私は、小5から軽ノイローゼ状態で、勉強もまともに手が着かないほど、いろんな恐怖を持っていたのだ。

ただ、そんな状態でありながらも、人並み以上の成績を残していたので、誰も理解してくれずに一人で苦しんでいた。

何年間も。



■ただ不思議なのが、そんなノイローゼ状態の私が【窮地】に立たされた時には、いつも冷静になっていたことだ。

周囲が慌てふためく中でも、集団パニック状態の中でも、不思議に冷静な私が居た。



■父親が亡くなった時もそうだった。

父の帰りを待ってくれていた人達に、一礼、お辞儀をする私が居た。

長男としての責任感だと思うが、私自身もよく分からない。

母親はもう、どうしようもないほど限界状態で、
すべての事は私がやるしか無かった。



■当時は自宅での葬儀だったので、花輪も道一杯に並んで居たとの事だが、高校生の私には、そんなところまで気が回らなかった。

ただ、残された参列者名簿を見ると、20冊程度あるで相当な数だと分かる。

(父親は、こんなにも多くの人達に惜しまれながら去ったのか・・)と思うと、今でも感無量になる。



そして、それから地獄の日々が訪れることになる・・。





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Trackback [0] | Comment [0] | Category [自分記] | 2013.11.19(Tue) PageTop

◆【自分記:第2回】奈落の底から光を見詰めた16歳の責任感


 
 【過去記事移動】 過去、このブログに書いている中で、今でも使えそうな話を移動します。 - 2012年11月20日のブログより。



【親族社長達が逃げた親族会議】


葬儀の翌日から、毎日毎日、親族会議が開かれた。

母親は、朝から晩まで泣き通しで、部屋の隅っこでうずくまったままだ。

夜になって親族達が集まり始めたら、なんとか起上がって親族会議の席にいた。



■議題は簡単なものだが、当時の大人の誰もが、解決策を見い出せない。

それも、それぞれに会社を経営している人達ばかりだ。


問題は、「父の負債1000万円:2013年の時点で1億2千万円以上」だった。

当時の父親には銀行が「借りてくれ」と、いつも来ていたので、父も「その気」になったのだろう。

父親が、新たに出直そうとして工場を建てて、新型機械を導入して、「さあ、これから」と言う時に、居なくなったのだ。



■銀行借入の保証人は、父の姉が嫁いだ先のM家の伯父名義になっていた。

M伯父は、「ワシの知らない内に、こいつ(父の姉)が勝手に印判を押した」と、私達を責め立てる。

M伯母も、「あなた(母親)が、だらしないから、私が印判を押したのだ」と言う。

M伯父も、M伯母も、「すべての責任が、私達家族にある」と言う。


親族会議と言っても、殆どは保証人のM夫婦からの罵声と責任転嫁だった。



■そんな状態だから、工場再建会議とならず、父親の負債から、どうやって自分達の身を護るかの如くだった。

親族の社長達は、ひとり、またひとりと抜け始めた。




【再縁】

その中で唯一、前向きな言葉で、「工場をたたんで、お前はワシのところへ来い」と言ってくれたのが、祖母の従兄にあたる人だった。

その人が、私の祖父母に仕事を譲り、私の工場の原形を創った人だった。


今では、県下で名前を知らない人は居ない程に成長した会社だが、その時はまだ、新しい仕事にチャレンジしている途中だった。

この時が、私の人生を左右する、最初の大きな岐路の時でもあった。

私が「工場を続けます」と言ったので、その人の会社に行けなかったが、あの時そちらの道を選んで居たら、私の人生は別の形になっただろう。



■時代が下り、その会社を、私の娘が仕事先に選んだのも、何かの縁かも知れない。

娘に、3件の就職先を問われたが、「お前の好きな道を行け」と言ったら、どういう訳か?、娘は親戚にあたる会社を選んだ。

娘から「その会社の面接を受ける」と聞いた時、「お父さんが一筆書いてもいいけど、お前が嫌だろう?自力で入社した方が気が楽だろう?」と聞いた。

娘からも、「お父さんは何もしないで」と、キツク言われた(笑)



■面接試験を受けて帰った娘から、社長さんが「この住所の近くに○○という会社がないか?」と聞かれたので、「・・私、そこの娘です」と答えたとの事。


後に社長に「娘がお世話になっています」と挨拶に行った時、『まさか、あんたの娘とはなぁ。ビックリしたぞ。どうして連絡のひとつもしなかったんだ』

『この子はワシの親戚だ、通しとけ。と指示して置いたぞ』と言われる。


「私も一筆書こうと思ったけど、娘は実力で入りたかったようなので、御無礼とは思いましたが黙っていました」

「だけども社長さん、私は私で、自信持って、あなたの会社に娘を送り込んだのですよ。あの子は私の自慢の娘ですからね」


『解ってる、解ってる。お前の娘だからな。ワシが指示しなくても実力で入って来ただろうが、お前も娘も、水くさいって言ってるんじゃい

・・そんな処から、40年前の縁が戻り、深まった。



私が「工場を続けます」と言ったのは、M伯父夫婦に言わされたのだ。

私が工場をたためば、その負担は保証人のM伯父伯母夫婦のところに行くので、無理矢理に工場存続を決められたのだ。

だが私は高2の16歳。町工場を続ける力は無い。



そんな話に割って入って来たのが、神戸に居た父親の従弟だった。

『ワシが戻って工場を続ける』と言う。


私にとっては兄貴的な存在で、嬉しくはあったが、反面、不安も大きかった。

野心ばかりは、大きな人だったからだ。

結局、工場は、その父親の従弟が戻って来る事で存続する事になった。




【仕事のジャマをする2人の大人】

もう一人、問題ある人が居た。

私の話には殆ど登場しないが、私にとっては大問題の人だった。


創価学会の人で、私が小5の頃から働いていた人だ。

(今、こうして書いて気付いたが、この人が来た頃から、私はノイローゼ状態になった。何か関係でもあるのだろうか?)



■仮にAさんとして置くが、私は、どうしても好きになれない人だった。

醸し出す雰囲気も嫌いで、放つ言葉はイヤらしく(いわゆるエロじじい)、ロクに仕事もしないAさんの、傍に居る事すら不快だった。



■私が中学生の頃、Aさんは母親に「ここの子供さんは不思議だ立派だ。机の上に置いてある小銭が、いつまでもある」と言ったようだ。

当り前のことだろう(笑)


だが、
創価学会を学んでいるAさんにとっては、それが当り前の事では無いようだ。

自宅では、お金は勝手に消えるのだろう。

その他、もろもろの事すべてが、私とAさんとでは意見が異なった。



(親父は、どうして?こんな役にも立たない人を雇ったのか)と、疑問ばかりが湧くが、とうとう父親の口から聞き出すことは出来なかった。



父親の従弟、仕事をしないAさんの存在は、その後、私が仕事をする為の大きな障害となる。

両者とも口達者だが仕事はしない。

事務所に行けば「エロい話」をしているだけだった。

それも、若い私の反応を見て楽しんでいるのが、見てとれる。

「あんた等、ふたりともジャマだ!出て行け!」が、16歳の私の本音だった。




【暴力団】


もっと困った問題もあった。

父親は銀行借入しかしていないはずだが、毎日のように「金を貸しているから、返せ」と言う人達が来る。


困った。

その者達は、どこからどう見ても堅気の者とは思えない。

ヤクザか、その類の者達だろうが、ザと上着の中を見えるように広げて、ポケットのナイフを見せ付ける。

脅し屋だ。

(この場面を、沢尻エリカの「時計屋の娘」を見て思い出したので、この話を書き始めた)



■こういう者達への対応は、すべて私がやっていた。

「帳簿を見る限り、父親は銀行借入しかしていません。私も一般の人達から借りた話は聞いて居りません」

「あなた方は、父親と、どういう関係の方ですか?」


「父親は几帳面なので、お借りしているのなら借用証を書いているはずなので見せて下さい」

・・のような事を言い続けるだけだった。


相手は『親父さんへの信用貸しだ』のと、いろいろ脅しながら迫って来るが、私は、その程度の事には屈しない。



■当時の私は、たとえ相手がヤクザであろうと怖く無かった。

だから、(刺すなら刺せ、脅しには屈しないぞ)という姿勢が出ていたと思う。

力勝負では、負けはしないという自負もあった。



■当時の私の同級生達には5~7人の現役ヤクザが居たが、前後の学年を合わせると15人以上は居た計算になる。

私は、そういう中学校に通っていたのだ(汗)


彼等と殴り合いの喧嘩はした事は無いが、「やかましい!」と手を押し出しただけで吹っ飛んだ者が居る。

机をバタバタなぎ倒しながら床に倒れる姿を見ていて、そちらの方が怖かった。

(かかって来るか)と身構えて居たら、なんと私の肩を揉み始め「まあまあ、そんなに怒るなよ。ワシが悪かった」と言う。


翌日から、彼の身辺の者達の、私への言葉遣いが「さん」付けになった。

その男は、最近まで現役で居たはずだが、亡くなったと聞いている。



■そうした学校に居た為か?仕事上でもヤクザと出逢う事も少なくは無かったが、実害を受けた事は無かった。


『父親に貸した金を返せ』と脅しに来ていた者達の素性は解らないが、諦めたようだ。

半年程度対応している内に、次第に来なくなった。


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言葉では、簡単のように見えるかも知れないが、そう思う人は、実際にやってみろや!


夜討ち朝駆け、やられて見ろってんだよ!


ひとつ間違えば、修羅場になるかも知れないんだぞ!


1分1秒が、命掛けだぞ!


・・ネット上で、大口叩く者達に、そう言いたい時もある。

彼等の中身の無い大口には、ほんとうに呆れてモノも言えない(言っているが(笑))




【家庭内】


こうした生活の中に居ながら、私は工場を管理・稼働させなければならなかった。


母親は、約1年程度は寝込んだままで、「放って置いたら自殺するんじゃないか」と、神戸の祖父の妹が、わざわざ我が家に泊まりに来てくれた。

私は、このおばさんを100%の信頼をしているし、おばさんもまた同じようだった。


数年前、102歳で亡くなったが、絶対に無事に天国に還っている人だと思っている。



母がそんな状態。

ふたりの大人の男共は、機械も扱えず、役に立たない。

だから私が、やるしかなかった。



朝飯は祖母や祖母の妹のおばさんが、「みそ汁」程度のものを作ってくれるが、私達きょうだいの弁当は、私が作っていた。

晩飯だけは、母親が作ってくれたので、なんとかだが飢える事はなかった。




【工場】


問題は仕事だ。

工場の機械が動かなければ、どうしようもないのだ。


私は、高校の授業が終わるなり、自転車漕いで急いで帰り、工場に入っていた。

毎日のように、20台ある機械のどれかが故障しているので、翌日まで修理して置かなければ女工員さんの仕事が出来ない。



故障原因の殆どは、激しく揺れる機械のネジの緩みから来るものだった。

大の大人の男がふたりも居ても、それらを修そうともしない。

本当に役に立たない人達だった。

私には給料泥棒としか思えなかった。




故障した機械の原因を女工さん達に教えながら、修理そのものは私が手掛けていた。

夜8時まで掛かるのは普通で、明け方まで掛かることもあった。

女工さんが出て来るまでには、なんとか修理を終えていた。



正直言って、辛かった。

毎日毎日、大人でも出来ない事を、やっていたのだ。


日中は平気な顔をしていても、夜、布団に入ると、溢れる思いと涙が出て来る。


「親父のバカタレ!なぜ!死んだ!」

「聞きたい事がある!化けてでも出て来い!」

・・懸命に強がっては居ても、まだまだ16歳の子供だったのだ。



父親は化けては来なかったが(笑)、毎日のように私の夢の中に現れていた。

無言のまま微笑んでいた。


「お父ちゃん!帰って来たの!」

「でも、また、どこかへ消えてしまうのでは・・」の、繰り返しだった。


この間、不可思議な事も夢の中で体験しているが、【その夢は、ただの夢では無い】と知ったのは[幸福の科学]に入ってからだった。



■そんな状態で1年近くが過ぎた。

私は高3になり、卒業後は工場に入るつもりでいた。


そこに、M伯父の息子(私の従兄)が名古屋から帰って来て家業を継ぎ、役に立たないふたりに代わって経理事務を兼務してくれた。

私は、その従兄の堅実な仕事振りを見ながら育った。

私に多大な影響を与えてくれた人だった。



だがやはり、その従兄も機械だけは触ることが出来なかった。

工場を動かせる人間は、当時高校生の私だけという、悲惨なものだった。




【大学】

高3の正月が過ぎた頃になって、会社の名目だけの代理社長になってもらっているM伯父から、『男が多過ぎるから、お前は大学に行け』と言われた。

予想もしていない言葉だった。


■その頃には、妙な取り立て屋も来なくなっていたし、工場の機械も、女工員さん達が自分達で修理方法を憶えてくれていた。

女工員さん達に出来ない部分は、近所の鉄工所に頼んで修理出来る状態にまでしていた。


私は、会社の経営だけに、的を絞れる状態にまでは持って行っていた。




■当面の問題は、工場の経営だけになっていた。

だけども、どうしても新規の事業が必要だった。

だが、頭の硬い大人達が3人も居て、何等の知恵を出す事もなく、日常が終えるだけだった。



■とうとう、高校生の私が、大阪の業者の言葉をヒントに【新規事業】の提案をしたが、大人達3人には笑われるだけで相手にもしてもらえなかった。

特に酷かったのが、昔から居座っている番頭格の創価学会の人だった。

ほんとうに給料泥棒と言っても良いほど、酷い働き振りだった。

1週間のうち、3日は、勝手に休む。


迎えに行けば、朝からベロンベロンに酔っぱらっていた。


私の提案した【新規事業】は、この人に寄って潰されてしまった。



だが私は負けない。

やがて必死で、その【新規事業】に着手した。

大人達でも出来なかったことを成し遂げた。

その後、番頭格の人は、いたたまれなくなって、自ら会社を去って行った。




【松山へ】

私は、大きな問題の殆どは片付けて、大学に行こうとするが、時すでに遅かった。

山口大学の経済学部に入れれば良かったのだが、当時の競争率は16倍(笑)で、とてもとても無理な話だった。



■担任からは「教育学部なら入れるぞ」と言われていたが、必要なものは、「商業・経済」の勉強だった。

殆ど勉強する暇もなかった私だったが、「経済学部」は無理でも、「教育学部」には入れるレベルだったのだ。

同級生達でも、「あいつが?」と思うような者達が教師になっていた。

ご当人達には申し訳ない言葉だとは思うが、当時の教育学部と市役所は、入試と就職先のスベリ止めだった。

当時の世間は、そのように受け止めていたし、そうした自覚を持つ者達も多かった。



■2月になっても、行くところが無かった私は、M伯父伯母夫婦に追い出されるように、松山の夜間大学へ行くことにした。

松山での2年間は、毎日が充実した日々であり、今の私を築く基礎になった。



■だが、松山に居る私から見た山口の暮らしは、まるで天国から地獄に行くような重い重いものだった。


そして、帰り際になって、生涯に渡る皮膚疾患に襲われる。

あっと言う間に全身性のものになり、私は松山赤十字病院に8ヶ月入院を余儀なくされた。


治そうとすればするほど、あせればあせるほど、病気はどんどん酷くなって行った。

とうとう、M伯母に寄って私は無理矢理に退院させられて、師走すの山口に帰って来た。

昭和43年の12月だった。


以後は、【貧・病・争】の極限状態と向き合いつつ、生きて行く私となって行く。


次回は、松山での想い出を少しだけ。




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Trackback [0] | Comment [0] | Category [自分記] | 2013.11.20(Wed) PageTop

◆【自分記:第4回】再建から成功への道のり。


 
 【過去記事移動】 過去、このブログに書いている中で、今でも使えそうな話を移動します。 - 2013年11月23日のブログより。



【余談】


前頁の作業着を着ているのは私だが、私は、なで肩の為、着痩せするタイプのようで、見た目と中身は違うようだ。

写真の頃の私の太股は80㎝、上腕部は50㎝、力こぶを出すと60㎝あったのだが、服を着るとそんなに見えないらしい。



■もともと体力がある自分だったが、父の死後は、お金の掛からない鉄棒等で遊んで居たし、本屋と病院の仕事は、私の身体を鍛えてくれた。

本屋での重労働は、重い荷物を握り締めるので、握力(右75㎏、左55㎏)と背筋力は(300㎏以上:機械の測定限界)、異常に強くなっていた。

鉄棒に人差し指1本でブラ下がり、右手は10㎝ブロックを割り、両手の指先でリンゴを真っ二つに引き裂いて居たので、隠し芸にはもって来いだった(笑)



■18歳の時には、松山大学の空手部より破壊力を持っていたので、他人を殴るような真似は絶対に出来なかった。

空手部の先輩達とも遊んでいたので、多少は空手の心得があるので、右手正拳突きをすれば、おそらく相手の骨は簡単に砕けてしまう。

禁じ手の指先目潰しをすれば(怖くて出来ないが)、相手の両目は破壊して失明してしまうだろう。

だから、私の右手は封印だ(笑)


20050206-1.jpg 


■この写真は、ネット知人に手相占い(笑)してもらう為に、デジカメで撮ったものだ。

私の両手は[ますかけ]という珍しいタイプのようなので、それを見せる為に写したのだが、カメラに映っていたものには、なぜか?指先が光っていた。

こうした光は、子供の頃から実際に見えていたので、私は長年[人体エネルギー]だとばかり思っていた。



■入信前に[大川総裁]のビデオを見せて頂いた時、このような光が見えて「?」と思ったら、ドンドン大きくなって、TVからはみ出した事がある。

それが「大川総裁のオーラです」と説明されても、オーラは[人体エネルギー]だと思っていた私には、すぐには納得が行かなかった。

それが本物のオーラだと解るまで、それほど時間は要しなかったが、最初の頃は、(無機質の機械から、オーラが出るはずが無い)と思っていた(笑)

[人体エネルギー]は人体から出るものだとばかり思っていたが、それが間違いだと気付かされたのが[幸福の科学]の教えを学んでからだった。




【創価学会信者さん達を、知る】


本題に入る。

1969年12月。

山口県に帰って来た私を待っていたものは、予想通りのものだった。

M伯母の「県内で治療」の言葉は嘘であり、私を帰す為のものだった。

その後は、仕事をしながら、自宅治療をせざるを得なかった。



神戸から来ていた父親の従弟は、自分の力不足を悟ったのか、神戸に帰っていた。


怠け者のAさん(当時40代後半)は、相変わらずの自分勝手な週休3日制だ(笑)。


仕事に出て来たと思うと、本来は営業員として雇っているのに、女工さんに混じって働いている振りをしている。

ほんとうに役に立たない怠け者としか言えない人だが、今と違って簡単にクビにする事は出来なかった。

【終身雇用制】が、世間では当り前になっていたからだ。



■それに、父親が亡くなった時、工場の仕事を一番よく知っていた人なので、嫌々ながらもAさんを頼らざるを得なかったこともある。

それに増長したAさんは、まさにやりたい放題だった。


Aさん関係の創価学会の取引先も、平気で嫌みを言う人達ばかりだった。


不思議で仕方なかった。



■母親の弟に嫁に来た人(叔母)も創価学会に入り、狂信的になって、いつも家の中は夫婦で大喧嘩。

とうとう息子(私の従弟)は家出をした。


(宗教者とは、こういう人達なのか)と、次第に私は、新興宗教に対してはナナメ目線で見るようになった。



ちなみに、狂信的な学会信者だった叔母は、最近、軽いボケが来ると同時に創価学会から見放されたようだ。

母の会葬御礼として、[幸福の科学]の【生命の法】を渡したら、「この本、とても良い本よ、読んでみてね」と、親族の者達に声を掛けていた(汗)

私が言うより、余程、効果的で(汗)、親族には大きな反響があった。


半ボケ状態の叔母でも、魂は【本物の悟りとは何か】を知っているのだろう。



Aさんは、やがて退社して他の職場で働いていたが、聞こえて来るのは【私と、私の工場の悪口】ばかりだった。

「(3万5千円の)給料が安かった」とも聞こえて来ていた。

冗談じゃない!当時の高卒の初任給が1万円前後の頃の3万5千円だ。

今の物価換算すれば、35~40万円になる額だ。


それも、ロクに仕事もしない怠け者だった人に払っていたのだ。

私は、【恩を仇で返す】ような真似をする人には関わりたくなかった。



■やがて、Aさんはガンで亡くなった。

母や女工員さん達と[お悔やみ]に行った時、

「・・ガンだったそうで」と言うなり、『ガンじゃありませんで!』と、爆弾声で奥さんに叱られた。

怒鳴られた。


だが、私が受けた医者からの報告は、間違いなく胃ガンだったのだ。

帰り際、女工員さん達が「創価学会って、ガンで亡くなったらいけないのかね?」、「恥なんじゃないの?」・・のような話をしていたのを憶えている。





【新規事業開拓】


工場の仕事は、16歳の私が半年程度で把握していた。

高校生の私が、Aさんを追い抜く仕事をしていたので、Aさんは女工員に混じって仕事をするようになった。

私が提案した新規事業計画には耳も貸さず、実質的な社長である私の「営業に出てくれ」は無視された。

『出来るものか』とあざ笑うだけだった。



■工場に戻った私が、「営業に出てくれ」と言う度に、Aさんは【畑が無い】と言い返す。

【畑が無かったら、耕せばいいんだ!】と、私も負けない(笑)


この時の私は20歳。Aさんは50歳で、親子ほどの差があったが、それほど犬猿の仲だった(汗)

どう考えても、若い私の方が、常識的だと思うのだが・・。


Aさんは、仕事中でも創価学会の話とエッチな話ばかりしていたので、工場のみんなからも嫌われ者だった。

そこに、怠け者と来たら、【辞めて欲しい!】のだが、私達が「辞めてくれ」と言えない事を見越して、好き放題のことをしていた人だ。

当時の私には、車の免許を取りに行く暇も金も無く、会社の車を自家用車代わりに使うAさんには、ほんとうに辟易としていた。



■私は、とうとう、バイクに箱をくくりつけ、見本を詰めた風呂敷包みを入れて営業を始めた。

このバイクで仕事する案は、松山の本屋での仕事がヒントになった。


『誰が買うものか』と、あざ笑うAさんを横目に、毎日毎日、店という店、会社という会社、手当たり次第に新規開拓を始めた。


[幸福の科学]に例えれば、[ノック献本]と同じこと。

いや、そんな柔なものではない(ごめんなさい)


それまで誰も知らない、見たこともない仕事のセールスをしているのだ。


生半可な思いでは、心掛けでは、話にもならない。

それも若干20歳の若造が・・だ。



当時、私を動かしたものは【この仕事は絶対に成功する】という確信だった。

それが大人達には解らない。

だから解ってもらえるまでの根比べだ(笑)


この間、何千という店や会社に飛び込み、追い出され(笑)、それでも諦めずに何度も何度も伺っていた。

どこかひとつ、どこか1店でも穴が開けば、後は関が崩れるように拡がるイメージを持ちながら、

どこに行っても追い返されていた(笑)



そして、とうとう、その時が来た。

今では県内大手になったある企業が、耳を傾けて、興味を示してくれたのだ。


「これは行ける」となり、その企業と連携して、私の企画したものが県内に出始めた。


私が描いていたイメージ通り、一端関を切ったら拡がるのは早いもので、「あっ」と言うまに、僅か数年で世の中の主流になった。

今では、どこの家庭にも目立たず普通にあるので、そんなものにも、そういう時代、そういう時期があったとは誰もが思わないだろう。



そうして、16歳の頃から考えていた新規事業は、大成功となった。

そして、すぐに極く普通に家庭や職場に浸透しているので、誰も気付かず、【それが当り前】と思っているのが、なんだか心地良く嬉しかった(笑)



■私のやる事に、嫌みやあざ笑っていたAさんは、私の新規事業の成功で、居心地が悪くなったのだろう。

やがて、辞職願いも何も出さずに、仕事に来なくなった。

迎えに行けば、【辞めたんだ!来るな!】と言うので、退職扱いにした。




【祖母の死】


昭和46年9月。

私が22歳の時、やっと車の免許を取る余裕が出来たので、夜間自動車学校に通い始めた。

産まれて始めて乗った車は、2000ccの大型車トヨタクラウンだ。

デカいので、まったく感覚が解らず、溝に突っ込んでしまった(笑)

・・が、若かったので、すぐに慣れて仮免を突破し、本試験まで2回の運転コースを残して居た日だった。



家に着くと、家の中に明々と灯が点いている?

帰るなり、玄関で妹が「お兄ちゃん・・おばあちゃんが・・」と、泣きながら言う。

(なにごとだ!)と、家に入ると大勢の親戚達が来ている。

その先には、布団に寝かされた祖母が居た。

駆け寄るなり、そのまま腰が抜けたように、へたり込んでしまった。



■祖母は、その日に限って「○○(私)は、まだ帰らんのかのう・・」と、何度も言いながら風呂に入り、そのまま心臓マヒで倒れたようだ。

「おばあちゃん・・あんたの帰りを待って・・」と、母も、妹も、親戚達も泣いていた。


だが、目の前には、モノ言わぬ祖母が居るだけだった。

大好きだった祖母が、突然、モノ言わぬ人となった事に茫然自失となり、目の前で何が起きているのか、しばらくは理解する事が出来なかった。


親戚の者達は、そんな私を励ましながら、葬儀の手配をしてくれていた。



■父の死から6年、祖母が亡くなった。

父の時とは違って、少しは大人になっていた私だが、やはり、いきなり受け入れがたいものがあった。

おそらく、父の時より、心の準備が出来ていなかった分、涙は出ないが腑抜け状態だったと思う。



■無事、祖母の葬儀を終えて、私は毎日、近くにある墓に手を合わせに行っていた。

自分では、【普通】と思っていたのだが、工場の人達からは「○○(私)ちゃん、大丈夫かね」と、言われていたようだ。

人目には、私がフラつくように歩いているように見えていたらしい(汗)




【仕事の大転換】

祖母が亡くなった時は、仕事は順調で、逆に、父親の仕事が足手纏いに感じ始めて居た頃だった。

父親の仕事は、工場の従業員さん達を養う給料程度にしかならなかった。


考えた


祖母が亡くなった頃は、思い切って、父親の工場をやめようと考えていた時の、矢先の出来事だった。



■文章で書けば、ほんの数行だが、この間、どれだけ悩んだことか!


父親が死を掛けて、始めようとしていた仕事なのだ。


父親だけでは無い。祖父母が、親戚から譲ってもらった仕事だったのだ。


それが儲からない。

従業員を養うだけの工場では負債は返せない。


父親の負債を返すには、もっと身軽になるしかなかった。。



祖母が亡くなった事で、私は、父親の工場を閉鎖する決心が付いた。

今思えば、祖母が、そのように向けてくれたのかも知れない。


もともとは祖母が始めた仕事なのに。。



私は、名目社長のM伯父に、【事業の転換】を伝えた。

M伯父も了解し、工員を集めて「半年後に工場をやめる」ことを伝えた。

女工さん達とのトラブルは、何も無かった。

女工さん達も納得して頂き、工場は閉鎖に向けて準備を始めた。


[解散会]のようなパーティーをしたが人を雇うのは本当に大変だった。

年に数回のパーティーは、私が最も嫌いな行事でもあったのだ(汗)

なぜかと言うと、親子ほど歳が違う人達ばかりなので、居心地が悪いのなんのって(笑)



そして翌年、祖父母の代より続けた工場は閉鎖した。

機械類は、市内の業者に引き取ってもらう事にした。


私は、機械を台座から外し、外に並べて居た。

それを業者の車が磁石で持ち上げて、【ガッシャン!】と、車に乗せる。


・・いたたまれなくなった。。

父親が、あれほど力を注いだ機械が、今、目の前で、まるでスクラップゴミのような扱いで、車に積まれているのだ。

・・涙が、次から次へと湧き出して来る。


今の額にして総額5千万円の機械達が、ほんの僅かな額になって持ち去られた。


金額よりも、父親や祖母達の事を思うと、何とも言えない複雑な思いだった。


【諸行無常】を、身を持って知った。





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Trackback [0] | Comment [0] | Category [自分記] | 2013.11.23(Sat) PageTop

◆【自分記:第5回】正業としての仕事


 
 【過去記事移動】 過去、このブログに書いている中で、今でも使えそうな話を移動します。 - 2013年11月24日のブログより。



仏教の教えに、【八正道】と言う、反省(心の点検)の教えがある。

【正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定】だ。


正しく物事を見て、正しく思い、正しく語り、正しく行為をし、正しく生活し、正しく精進し、正しく念じ、正しく定に入るべし・・という教えだ。


これは、普通の仏教であるならば、どこでも習う大切な教えでもある。

私の息子の
仏教系高校でも、般若心経と共に、必ず習う基礎中の基礎でもある。


日本人であるならば、この仏教の教えの【八正道】くらいは、最低でも、絶対に知って置くべきものだが

・・今は知らない人達が多くなった。


ちなみに[幸福の科学]の教えには、【四正道:愛・知・反省・発展】の教えがあるが、【八正道】は「反省の教え」の中に入っている。




【正業としての仕事】

こ(第4回)までの話は、主として仕事としての【正業】語りたい為に書いて来た。

仕事に於いても、他人様を幸福にするものと、堕落させるものがあると言う事だ。


私は、いろんな分野の仕事をして来たが、他人様を堕落させる仕事だけは避けて来た。

真理勉強はしていなくても、仕事内容の善悪くらいは分かるだろう。



■ところが、真理学習をしているはずの当時の創価学会の人達は、そうではなかった。(今は、そうだと思いたい)

金儲けの為には、手段を選ばない人達が多かった。



■Aさんという人に、当時の番頭格の権限を与えたら、仕事を怠け出しただけでは無く、仕事の邪魔すらし始めたのだ。

これは、仏教の八正道の内の【正業】とは相反する所業だ。


自らも堕落するが、その行為が他者まで堕落させるという悪循環の中に居た人だった。


また、放つ言葉は汚泥の様に汚く、仏教の基本の【正語】すら出来ていなかった。




■これは何も、Aさんに限ったものでは無い。

近所に住む創価学会のIさんが、私が18年前に[幸福の科学]に入信したと知るや、すぐに嫌がらせに来たことがある。

Iさんとは、それ以前までは、一緒に地域ボランティアをしたりしていたので、私の親しい後輩だった。

・・はずだった。


ただ、打ち上げでカラオケ等に行く時に、私が「Iさんが来ていない。呼んで来る」と言えば、「ほっとけ、あいつは呼ばんでいい」のような事はあった。

私が「なぜか?」と聞けば、「あいつは創価学会だからだ。付き合いが悪いし、ワシ等の楽しみの邪魔をするから、呼ばんでいい」との事だった。

それでも私は呼んで来て、一緒に歌って居た仲だ。


ただ、確かに、皆んなが言うように、仲間達と打ち解けずに、自分勝手な振る舞いをしていた。

その時始めて、Iさんの別の面を見た。

これは、Iさんの中に正見、正思、正語、正業、正命、正精進】等が、まったく出来ていないからだ。

これらが出来ていないのなら、宗教を学ぶ者では無い。



そのIさんは、街中にある私の店舗まで来て、嫌がらせをする。

そんな仲ではなかったはずなのに、突然、人が変わったように【脅し文句】を並び立てる。

カウンターに片ヒジ付いて、「おい、お前」だ。

その態度はヤクザと変わらない。




■いろいろ言いながら、「お前は金儲けが下手だな。ワシの友達は随分と儲けてるぞ」と言う。

それまでは、ずっとIさんが並び立てる【脅し文句】を黙って聞いていたが、その言葉を聞いて反撃に出た。


おお、それは儲かるだろうよ。あそこはアダルトビデオを売って居るだろう。それがあそこの収入源の殆どだよ

だがな、俺は、そうした人様を堕落させる仕事が大嫌いなんだよ!

あんたな、俺の店の隅から隅まで探して見ろよ

「そうした人様を堕落させるような物が、ひとつでもあるかどうか、探して見ろよ!」

俺はな、小さな子供達が入って来ても、親から心配されない、子供が1日中居ても、安心出来る店にしてるんだぞ

「だから、あんたが言う金儲けは、確かに俺は下手かも知れんがな」

俺は儲け方を知らないんじゃない。やりたくないから、しないだけだ!

「俺が、人様を堕落させて金儲けして平気な男だったらな、いくらでも儲けてやるよ。大金持ちになってやるよ」



Iさんは、私の顔をじっと見ていたが、そのまま無言で帰ってしまった。

今でも近所なので顔を合わせるが、何も言わなくなった。


やがて、Iさんの言葉とは裏腹に、彼の友人の店は倒産。

私は元気に頑張っている。




仕事は何でもすれば良いってものでは無い。

していい(仕)事と、してはいけない(仕)事の区別を付ける事が、人間が人間である為の条件のようなものだ


オレオレ詐欺のように他人を騙してお金を取ったり、泥棒したり、
人間の欲望を煽って、結果的に他人を堕落させる仕事とても危険だ


地獄的な仕事をしていたら、当然の如く、【地獄縁】が付いてしまう。


その時点で、見た目は人間であることには違いないが、
心の中が違う。

醸し出す雰囲気が違う。

目付きが違う、顔付き・表情・仕草・態度が違う。


自分では、そうした事が解らないだろう。

自分の意志で動いていると自分では思っていても、違う。

傍目から見たら、まるで意志を奪われたマリオネットのように見えている。


何がそうさせているのかと言うと、
【正業】の道を踏み外しているからだ



■私は、そうした悪どい仕事を嫌い、お客様に【心の底から喜ばれる仕事】を選んで来たつもりだ。

さらには、ひとつひとつ【心を込めて、感謝を込めて】仕事をして来たつもりだ。


【八正道】は[幸福の科学]に入って学んだものだが、その中の【正業】を、「我が人生記」として4回に渡り、仕事の話を中心に書いてみた。


[幸福の科学]の教えの【日々、正しき心の探求】は、27年前の初期の頃に説かれたようだが、私は10年遅れながらも、探求し続けている。





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Trackback [0] | Comment [0] | Category [自分記] | 2013.11.24(Sun) PageTop

◆【自分記:第6回】名家産まれの期待される少年の、心の葛藤


 
 【過去記事移動】 過去、このブログに書いている中で、今でも使えそうな話を移動します。 - 2013年12月03日のブログより。



前回までは、仏教の教えの中にある、3大苦(貧・病・争)の中の、貧の部分の前半部(笑)を書き記した。

ただ記録的に書いたのでは無く、マイナス環境の中から出発して、いろんな人達との相克・出逢いを通して、課題克服して来た事を言いたかった。


だからこそ【人ありてこそ我あり】と、自分の人生を語る時には、他人との関係を書いている。


当然、悪役の人達も出て来るが、私自身は本物の悪人とは思ってもいない。

「罪を憎んで人を憎まず」ではないが、それほど高尚な精神の持ち主ではないが、行動としての悪(業)とおぼしきものを、人物と共に表わしている。



■私自身は、嫌な言葉を浴びせられたとしても3日持てば長い方だ。

大抵は3日以内に忘れてしまう。


そんな私のはずが、3大苦(貧・病・争)の【病】の中に居た事がある。


【争】と重なる部分もあるが、主に【病】に付いて書いてみたい。


【人生、山あり谷あり】を言いたい為に、10歳頃までの私は自慢話のようになるが、お許しあれ。




【プロローグ】

私の家系は、大内義隆の直系子孫だ。

室町末期の戦乱期、大内義隆は京都公家達を大量に匿って、その京都公家を奥方にしていた。

大内義隆は戦乱の世を嫌い、本気で京都から長州遷都を考えていた文人武将だった。

その名残は、現山口文化(五重の塔、雪舟の庭、ザビエル教会、等々)として残されている。



■歴史上では、大内氏は全滅とされているが、大内氏が戦乱の世から匿っていた京都公家達は、川上村に逃げ延びて約200年間住んでいた。


だから正確には、大内氏は全滅などしていない。

むしろ、逃げ延びた京都公家達は、力を貯めて、後世に、吉田松蔭、乃木希典のような歴史上の人物を産み出している。

また、この公家達は、天皇家と同じく血筋を大切にするゆえに、400年間も同族婚の家系だった。



■大内氏は、日本で最初にキリスト教の布教を認め、教会まで建てた寛大な人物だ。

だから、その子孫である私が[幸福の科学]で学んでも、キリスト教には違和感は無い。


だが、キリスト教徒からは、排斥される
(笑)

恩知らずな人達だ(笑)



■冗談めいて書いているが、私としては、この部分を、しっかりと知って頂きたい。

あなた達(キリスト教徒)は、400年前の日本で、キリスト布教の足掛かりの手伝いをした恩人の子孫を排斥しているのだと。


私の先祖の大内氏は、あなた達のような考えの人では無かった。

寛大な心を持つ人であり、仏教文化の京都から遷都を模索しながらも、異教徒のあなた達をも受け入れて来たのだ。


それが、どれだけ大きな意味を持つのか、あなた達には気付いて頂きたい。



■大内氏に力があったからこそ為せた業であるが、【善いものは善い】と素直に認める事が出来た人なのだ。

大内氏の恩恵を受けたあなた達も、【善いものは善い】と素直になって頂きたい。

・・と、願っている。




【血筋と伝統】

戦後、そうした家柄に、初めて他家の嫁達が来た。

私の母も、その一人だった。


おそらく・・だが、各家々で、それぞれ相当な確執があったと推測する。

私の家もそうだった。


威厳ある祖母と、強度のヒステリー母親は、双方が【相容れぬ】ものがあった。

父親は人望家で、父の周りには、いつも人が寄っていた。


そんな家庭に、私達3人きょうだい(私、弟、妹)が産まれた。



■私が特殊な事情(神様の予告通り)に産まれた事で、親族会議が開かれ、私の名前に大内の長たる証の【義】の一文字が与えられた。


それ以来の私は、もの心付いた頃には、毎日のように風呂に入りに来ていた一族の長老達から特殊な教育を受けていた。


私は、記憶力だけは良かったので、3人の長老達から、いろんな事を教え込まれた。


「一族の歴史」も、自分達の子供達さえ教えていないのに、私だけに教え込まれた。



■どうして私だけなのか解らないが、たぶん、教えた事を記憶する正確さだと思っている。

102歳で亡くなった神戸の叔母も同じだった。

ふたりで摺り合わせた内容は、寸分違わないものだった。

たぶん、片っ端から伝えていたら、「伝言ゲーム」のようになって、どれが本当の事か解らなくなっていたかも知れない。

そうした意味では、私は「一族の長たる役目と、語り部の役目」を課せられたのかも知れない。

・・と、思っている。



■20年くらい前のTVで、「正統な大内の子孫は?」とやっていたようだが(私自身は見ていない)、残念ながら彼等では無い。

「家系図がある」だの、「鎧兜がある」だのと言っていたようだが、それは違う。

私の家にも、【正統な大内宝刀】があったのだ。


大内の子孫は意外と多いが、「正統な大内の子孫」を名乗るのなら【大内家の心構え】が教え込まれて居なければならないはずだ。

大内の基本は【モノよりは、心】なのだ。



■だが、当時の私には、そんな事はどうでもよい事だった。

「そんな事で、本家本元になりたいのなら、ご勝手にどうぞ」の心境だった。


御先祖が立派な人でも、今生きている人達の自堕落さ、我儘さ、高慢さに辟易していた私は、20歳の頃から「口を閉ざして貝になる」と決めていた。


私が黙したままで、大内の隠された歴史を、本気で終わらせようと決意していた。

そうして、40年間以上、黙していた。



■私の考えが変わったのは、[幸福の科学]で【どんな人にも、その家、その家族に産まれた意味があります】と、教えられたからだ。

「・・そうか、あの人にも、この人にも、それぞれに産まれた意味があるのか」と思った私は、ポツリポツリと信頼出来る人達へ語り始めた。


だが、【大内家の心構え】は、未だに誰にも教えていない。

もちろん家族にも黙している。


(理解出来る後継者が現れたら・・)と思いつつ、20年が経った(笑)

ヒントは、これまで語った中にある。




【幼少期】

そうした私の幼少期は、自分で言うのも変だが、他の者の追随を許さないほどのものだった。

幼稚園期は、5人の超少数派の校区違いの地区から来ていた私が、百人を超える他地区の者を制して、すべてに置いてリーダー役をしていた。

入園挨拶、送辞・答辞、学芸会の主役、中学校での先頭大太鼓、等々。


おそらく、百人を超える他地区(校区違い)のお母さん方から「反発」のようなものがあったのかも知れない。

私の母親は、一切の行事に、運動会にも遠足にも、出て来なかった。


校区が一緒になる中学校入学時に、数人の人から『あなたが○○君なの?』と言われて、「なんだ?このおばさん?」と、不思議に思ったものだ(笑)




【小学前中期:知力・体力が中学生並の内気な野生児】

幼稚園から小学生になった時、他地区の幼稚園に通っていた私は、なかなかクラスに打ち解ける事が出来なかったようだ。

もともと、おとなしい性格(嘘ではありませんよ(笑))に加えて、知った者が居なかったので、そうだったかも知れない。


■だけども、不思議に、女の子の友達は多かった。

家に遊びに来る子も、女の子ばかりなので、父親から「○○の友達は女の子ばかりじゃないか」と言って居たのを憶えている。


別に私がモテたとか、そういうものではなく、その女の子達と一緒に、隣の地区に絵画の勉強に行かされていたからだと思う。

彼女達にとっては、唯一男の私が頼もしい存在だったようだ。

半世紀以上経っても(笑)、「○○君に、皆んながしがみ付いていた。大木のように頼り甲斐があった」と言われるが、私には嘘のように聞こえる(笑)



■だが、考えてみると、おとなしくて無口ではあったが、この頃から【責任感】だけは人一倍強かったと思う。

だから、隣の地区に女の子をゾロゾロ(笑)連れて行っても、誰も嫌がらせをする者は居なかった。

背が高かったので、2~3年は得をしたと思う(笑)



小4の時は厳しい先生で、毎日、朝学習(30分早く出掛けて、黒板に書かれてある小テストを解く)をさせられていた。

そして、列ごとに「列長」を決め(私はいつも列長)、1週間ごとに、列の成績順に並び替えをさせられていた。


夏は北側の涼しい順に。冬は南側の暖かい順に。

クルクル変わるので、私の列がどの位置に居たのか憶えて居ないが、とにかく激しい競争(原理)に晒されていた(笑)


・・当時は嫌で嫌でたまらなかったが、今思うと、とても熱心な先生だったと思う。

吉田松蔭先生のように
(笑)。(松蔭先生、ごめんなさい)


4年生なのに夏休みも無いのだ。


「列長」は、その列の最下位生徒と、毎日一緒に勉強を強いられ、どちらかの家で一緒に、「夏休み帳」+「自由勉強」をしていた。


遊ぶ暇など、ありはしない!(笑)・・は違うが、それほど勉強、勉強の先生だった。



■この4年生の時、「知能テスト(IQテスト)と学力テスト」とがあった。

全校だったのか、4年生だけだったのかは知らないが、先生が母親に「○○君は、学校で1番の150でしたよ」と、嬉しそうに言ったらしい。

母親も、「知能テストも学力テストも1番だったと言われた」と、嬉しそうに話していた。


そしてそれが、私の悲劇の始まりになる
(笑)

先生からも、母親からも、叱咤激励・・違う。

叱咤、叱咤が始まった
(笑)



■体力測定も、走る、跳ぶ、投げる等々、すべて中2~中3並だったので、先生からは「将来はオリンピック選手に」の言葉が並び立てられていた(笑)

3年生の時から、垂直跳びは黒板から上に手が行き危ないので、私だけが廊下で跳んでいた。

他クラスの者達まで窓から乗り出して、ズラリと見られるのが、とても恥ずかしかった。


そうした事で、本気でそうとう期待されていたのだろう。通知票にも「将来はオリンピック選手に」と書かれてい(汗)

そして、見事に期待を裏切った(笑)


なんたって、当のご本人は遊ぶ事が忙しくて、まったくその気が無いのだから(汗)


だから、先生からの嫌がらせ?が始まった。・・が、私は気が付かない。

「今日は、こんなことがあったよ」と、母親に報告していたので、勝手に母親が怒っていた。



まずは、「○○君は、利己主義者です」と言われた事だ。

4年生の無邪気な私には、その意味が解らない。知ろうともしない(汗)


先生が「この問題、解る人!」と挙手を求めても・・、誰も手を挙げない。


私には答えは解っていても、内気な性格なので(本当ですよ)、手を挙げなかった。


だが、「○○君、答えなさい」と当てられると正解を言うので、「正解を知っていても他人に教えない利己主義者」と言われたのだ。

中学生並に体格も良いので、先生には、そのように見えていたのだろう。


母親は、「息子の性格知って置きながら、なんて言うことを!10歳の子供に対して利己主義者とは何事か!」と、激しく叫んでいた。

だけども、先生にまで言って行く勇気は無い。

だから、言われっ放しだったが(笑)、私は気にもしていなかった。


その態度が、ますます横柄に見えたのかも知れない。

先生の嫌がらせは、エスカレートし、4年生最後まで続いた。



今は、こうして、嫌がらせと書いているが、ほんとうに私は何とも思ってもいなかったのだ。

少しでも反骨心があれば、もう少し伸びたのかも知れないが(笑)


何とも思ってもいなかった証拠に、卒業後も50代まで、その先生と道で出逢う度に「先生!」と声を掛けていたし、年賀状のやりとりをしていた。

書きながら気付いたが、今は見掛けなくなった・・。

お元気なのだろうか。



■こうして、さんざん先生達の期待を裏切っていたと思う私だが、ご当人は平気の平座で何とも思っていなかった(汗)

ガキだ(笑)


今あらためて、こうして書いていると、先生の気持ちが分かる。

出来るはずなのに、しない私が、そうとうに、じれったく思われた事だろう(汗)



■そう言えば、5年前の坂本龍馬や吉田松蔭先生のメッセージ公案でも、同じような言葉が降りて来ていた

松蔭先生から叱られてた(汗)

今は、松蔭先生から叱られないので、とうとう見限られたかな(汗)




【小学後期~高校2年:さまざまな恐怖心から来るノイローゼの渦中】

そして、思春期が早く来たのか?私は5年生の半ば頃から、些細な事で悩むようになった。


この世のあらゆる事象が信用出来なくなり、恐怖心の虜になってしまった。

何がそうさせたのかを書けば、馬鹿馬鹿しいと思われるだろうが、当時の私には深刻な問題だった。


たまらなくなって大人や先生達に質問しても、答えは帰って来ないのだ。


「そんな事、考えるなよ」と、笑われる事が、殆どだった。


そのまま中学生になっても続くが、誰一人として、私がそんな苦しみを持っているとは気付かない。

むしろ、中学生になって、学べば学ぶほど疑問が出て来て、誰も答えてくれない事に、不安はますます増大した。



■例えば(汗)

みんな平気で居るけど、地球の引力が無くなったら、どうするのか?

地球の自転速度が、一瞬でも速くなったり遅くなったりしたら、地上のものは宇宙に放り出されてしまう。みんな怖くないのか?

大気圏(約1000Km)のうち、富士山の3Kmで呼吸困難になり、エレベスト山では酸素ボンベが必要なほど、空気の層は薄い。
その薄い空気の中で世界中の人間が生きているが、本当に充分なのか?

摩擦は、なぜ、あるのか?摩擦係数ゼロになったら、この世はどうなるのか?


等々、あれこれ考えれば考えるほど、答えももらえず、ひとりで闇の中に沈んで行き始めた。


大人になった今は、この答えが出なくても納得出来るが、子供の私には、どうしても答えが欲しかったのだ。

【求めても求めても(答えを)得られない苦しみ(求不得苦)】を、勝手に作っていたのだ。

ガキのくせに(笑)



この頃の私は、自然と笑っていたし、飛び跳ねていたので、誰一人として、私がそんな苦しみを持っているとは気付かない。


だけども、【運動場に立つ】事すら、パニック(症候群)になりそうな程の恐怖の最中に居た。

実際には、パニック(症候群)には成った事は無いが、寸前までは度々行っていた。


私の場合、パニック症候群と逆で、パニック状態になると【呼吸が止まる】のだ。

「息が出来ない苦しさ」を味じ合う事は、度々だった。



毎日が、そんな中に居たのだが、親に言っても一笑に伏され、先生も気付いてくれない。


とうとう中2の時、学級委員長の身でありながら、風の強い日に「俺、今日の朝礼はサボる」と言ったことがある。

悪気はまったく無いのだ。

風に吹かれる事で呼吸停止になるので、風が怖くて避けただけだった。



■そしたら、知らないうちにクラスの仲間が真似をして、半数の男子生徒がサボタージュだ(汗)

2階から朝礼を見て「ぞっ」とした。私のクラスだけ列が極端に短い(汗)


担任が青筋立てて駆け上がって来た。

学級委員長の私は、木っ端微塵に叱られるのを覚悟したが・・。

担任は、私が「言い出しっぺ」と知るや、何も言わずに職員室に戻った?


今考えると、担任は、学年担任でもあったので、【学級委員長が言い出しっぺ】と言いたく、したくなかったのだろう。

隠蔽教師のハシリだったかも(笑)



そんな状態の日々で、怖くて怖くて、授業などロクに身が入らない。


心の中はそんな大嵐でも、中学時代の私は、なんとか授業を聞いているだけで勉強は上位にいた。

必須5教科は、ほぼ満点だったが、特殊教科が最悪で(汗)、9科目合計の中間・期末試験では、15位~40位をウロチョロしていた。

(その位置に居れば、母親に叱られないので、上位を目差すなどの気持ちは無かった)



■学校の勉強に集中出来なかった私にとっては、中間・期末試験でさえ応用問題のようであり、いつも実力テストと変わらなかった。

だから、必須5教科だけの応用問題ばかりの実力テストでは、トップクラスに躍り出ていた。


だけども、私が上がったのでは無く、他の者が下がっていたのだ(汗)

特に中間・期末試験では上位を占有していた女子達は、応用問題ばかりの実力テストでは、殆どが上位に居なくなっていた。


※ちなみに、この必須5教科のほぼ満点は、私の娘も同じで、持って帰るテストは100点ばかりで、通知票はオール5だった。

とても娘には適わないと思ったものだ。


だけども、娘が持って帰るテスト内容は、私達の時代とは比べものにならないほど、劣化していた。

息子・娘のテストを見て、私は「ゆとり教育」の弊害が産み出した【学力低下】を、目の当たりにしたものだ。




【ノイローゼから、次なる段階へ】

中学時代の私は、友達は多かった。

だが、それでも【不安と恐怖の孤独感】の中に沈んでいたは、持てる力の半分も、ひょっとしたら1/3も出せていなかったかも知れない。


授業時間中も恐怖の虜だった。

背が高いので、幸いなことに常に最後列に居たので、すぐ傍に壁や柱がある事が、少しばかりの安心感をもたらせてくれていた。



■頭の中は【不安と恐怖】に支配されながらも、勉強も運動も上位に居たし、普通に笑顔も出ているので、誰も気付かない。解ってもらえない。


母親に訴えようものなら、「あんたはキ○ガイか!」と怒鳴られて居たので、我慢するしかなかった。


普通の母親だったら、おそらくこうした言動はしないだろうし、「どうしたの?」のように心配すると思うが、私の母親は特殊な人間だった。


この母親との葛藤が、やがて本格化して来る。

そして私の病気の数は、どんどん増えて行く。


※ちなみに私は、20歳までは、大きな病気はもちろん、風邪すらも滅多に引かないタイプだった。(今も風邪は滅多に引かない)

全校でインフルエンザ(香港A型)が蔓延した時、中3生徒は自主登校が続いたが、1度も欠席しなかったのは私一人だけだった。

(おそらく出席しない奴等にも、ワザと怠けて休んだ者が居たと思っている(笑))


私の中には、【風邪くらい何の事は無い。寝てれば治る】の思いがあったのだ。


それほど私は小学から高校まで病欠は1度もなく、20歳までは病院に行ったことも無かったのだが・・。





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◆【自分記:第7回】未知なる恐怖心との戦いの中、もしかして?


 
 【過去記事移動】 過去、このブログに書いている中で、今でも使えそうな話を移動します。 - 2013年12月4日のブログより。



石破氏のブログ発言には困ったものだ。

なぜ?わざわざブログに書く必要があったのか?

責任政党の幹事長を任されている事を忘れてもらっては困る。

強固な岩盤でも、蟻の一穴から崩れることもある。

前回の安倍政権がそうだった。

石破氏は、国民を引っ張る器で無い事が証明されたようなものだ。

氏が総理で無くて良かったと、ほんとうに思う。


それにも増して、国会前でデモ?をしている方々。

あなた方が、日本国家のことを思っての行動なら、ぜ?日本国旗の1つも立てないのか?

全員で、日本国旗を振りながら、正統デモをされたらいかがかな。

見ていて、不思議でならない光景だ。




【意外な発見?】

昨晩、【御法話ビデオ】を観ながら、フッと思い付いたことがあった。


昨日書いた私自身の話を、心の中で復唱していたのだが、もしも、この時期、ノイローゼ状態になっていなかったら】へと、思いが向いた。


私は何故か?小5の頃から、後に暴力団組織に入った者達ばかりから、嫌がらせを受けていた。



小学生時代の学校はサラリーマン家庭が多く、普通の者達ばかりで、番長のTとは仲が良く、いろんな面で気が合っていた。

もちろんTだけでは無い、殆どの級友達とは仲が良かった。




ただ一人だけ、Sという男が、私に様々な嫌がらせをして居た。(中卒後、私の小学校から唯一、暴力団組織に入った男だ)

毎日毎日、あまりにも執拗だったので、私はSには完敗だと思っていた。


今年になって、近所の恩師と話していた時、「Sには勝てなかったなぁ」と言うと、『でもお前は、負けもしなかっただろう?』と、先生が言う。

「ええっ?」

「そう言えば・・勝てなかった事ばかり記憶に残っているけど、負けてもいなかった・・」


先生は『そうだろうが。お前だったらそのはずだ。お前だったら、あのSに勝てなくても負けなかったはずだ』と言われて驚いた。

言われてみれば、確かにそうだった。

勝っても居ないが、負けても居なかった。



だけども、その先生は中1の担任で、小学時代の私は知らないはずだ。

中1の時、私の担任だった時の事を、私より知っていて驚く事がある。


「あの男はこういう奴で、あいつはこうした奴で・・」と、鋭い分析眼を持っている先生だと、今頃になって気が付いた。

さすがは講道館で山下8段を鍛えた人だと、思い知らされる事も多い。



■その先生が、『だけどもなぁ、お前がワシが担任の時にノイローゼだと?』

『ワシは、全然気付かなかったぞ。お前、何か勘違いしてるんじゃないか』とまで言われる。

いろんな恐怖心の話をしても、『わからんな。お前からは、そんな雰囲気はまったく感じなかったぞ』の繰り返し(笑)



■確かに私は、自分の苦しみを他人に言うタイプではないので、口に出さなかったから、誰も気付かなかったのかも知れない。

だけども大人だったら、雰囲気で分かるはずだ。


それが元講道館講師の先生にも分からないのなら、私は、とてつもない「能面男(笑)」を演じていたことになる。

毎日、あれだけの恐怖の中に居ながら、その気配を、他人に嗅ぎ取らせないものを持っていたことになるのだが・・。




【暴力校】

それはともかく、私が行った中学校は、私の小学時代と正反対で、
当時の県下一の【暴力校】だった

小学3校が集まる学校だが、他校の者達には【荒くれ者】が多かった。

職業差別的な言葉は慎まなければならないが、漁師の子供達が多かったので、私は異次元世界に来たような異様さを憶えたものだ。



■ただ私は、【未知なる恐怖】は憶えても、人間に対しての恐怖心は無い。

もしかしたらだが・・、

そんな私の性質を見越しての、守護霊や天上界からの【ノイローゼにさせて、おとなしくさせて置く】と言う、お計らいだったのかも知れない(汗)

昨晩、急に、そんな思いが湧き出した。

今まで考えもしなかった事だ。




■もし、仮に・・、私が正常なままだったとすると私の中学時代はどんな風に変わって居たかと想像していた。

おそらく、中学校でも番長を張っていたTと親友でもあったので、とんでもない中学時代になっていたかも知れない。


「Tが、誰々と喧嘩して勝った」だの、「T達が、他校の奴等と喧嘩して勝った」だのと、耳に入っていた。

だが私は、(Tなら、さもありなん)とばかり、気にも掛けていなかった。

小学時代の親友Tは、私と同クラスになった事もなく、中学~高校に掛けては、まったく付き合いが無くなっていた。


※ちなみに、成人して、再会した時のTは、別人になっていた。優しい男に変身していた。

そこから私達の友情は、本当の意味で始まった。



もし、中学校時代の私が正常だったら、Tとは行動を共にしなくても、向って来る者には、容赦ない反撃をしていたのでは・・と思ったりする。

喧嘩は大嫌いだが、自分から仕掛ける事は絶対に無いが、向かって来る者には、黙って我慢はしていなかったと思う。



■それでなくても、中1の時にはテニス部のキャプテンに、知らない所でラケット網をナイフでズタズタに切り裂かれていたのだ。(この男も(暴)に入った)

とにかく、中学時代の私に嫌がらせをして来た者達の殆どが、(暴)に入っていた。(笑)



■もし私が、そうした者達と対峙すれば(していたと思う)、中学生活のみならず、後々まで関わらざるを得なくなっていただろう。

当時の私の中学校から(暴)へ行っていたのは、顔見知りだけでも10人は居たし、おそらく30~50人は居たと思う。


取引先が組長の実家とは知らずに、納品しながら雑談していたら、顔見知りの者達がゾロゾロ来て、「おまえ等、なんだ?」と険悪な雰囲気になった事もある。

あんな優しい人達の息子が、組長?・・信じられなかったが、ほんとうだった。

その組織に、私の同級生達がゾロゾロ居たのだ。(笑)



■そう考えれば、私の下手な正義感を使えないイローゼ状態にして置く事で、彼等との悪縁を断つ事が出来る。

(実際に、彼等(暴達)と市内で顔を合わせても、縁を持つ事は無かった)


もしかしたら、ほんとうに、天のお計らいだったのかも知れない。

そんな気がして来たので、忘れない内に(汗)、書き記す。




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◆【自分記:第8回】長い長い闘病も、心の持ち方ひとつで短期間で完治


 
 【過去記事移動】 過去、このブログに書いている中で、今でも使えそうな話を移動します。 - 2013年12月7日のブログより。



【睡眠不足:睡眠を甘く見ていた事から始まる、さまざまな病】


20代前半で、仕事・仕事・仕事で明け暮れて、1日平均100件以上の【新規開拓:飛び込み販売】をしていた私は、【睡眠】を甘く見ていた。


殆ど熟睡出来ない自宅での皮膚病治療(ODT)は、それはそれは大変な作業だった。

まず、真似の出来る人は居ないと思う。出来ると思う人は1度でもお試しあれ(笑)


・風呂に入った後に、ワセリン状の軟膏を、頭から足の先まで塗る。

・(夏冬関係なく)、上半身をサランラップで巻き、その上に長袖下着を着て、弾力包帯でグルグル巻きにして、寝る。

・翌日は、同じように下半身と、交互に治療する。

この間の作業時間が1時間以上。



■寝ても、軟膏と汗でベタベタして眠られない。

当時は家庭にはクーラーも無く、夏は扇風機を掛けたまま。

夏はベタベタ部分が気持ち悪く、冬は冷たい。

この状態で眠る事が出来る人は、まず居ない。

熟睡出来ない。


・翌朝は、シャワーのような気の利いた物は無いので、夏は冷水のまま、冬はヤカンの湯を混ぜて、体中を石鹸で洗う。

この間の作業時間も1時間程度。病の治療をする作業だけでも1日2時間を要していた。

私はこれを5年以上続けて居たし、仕事も人並みの2~3倍はして居た。



■その時その時で最強のステロイド(副腎皮質ホルモン)軟膏を、錠剤にしたら1日2錠に充たるものを、20歳~45歳までの期間使用していた。

死する病では無かったが、【早く治さねば】と言う思いで、医者の言われるまま使用していた。


だけども、医者や薬剤師だったら、その量だけ見ても、【尋常な量では無い】と解るはず。

それだけの量の副腎皮質ホルモンは、【生死に関わる病】に処方される量だ。

いや、おそらくそれ以上だろう。

つまり、とっくに死んで居ても不思議では無い、大量の強い副腎皮質ホルモンを25年以上も使用して居たのだ。




【病の治療が次なる病を】

そうして、25歳の夏が過ぎ、「たまにはビールでも飲もうか」と、普段は飲みもしない缶ビールを飲もうとしたら、飲めない。

咽に詰まったまま降りない。

ビールが肺に入り呼吸出来なくなり、むせながら吐き出した。



■病院に行くと、「すぐに入院して下さい」と言われたが、断った。断らざるを得なかった。

仕事が事業転換の大成功で、私の代わりを出来る者が誰も居なかったからだ。

個人事業の辛いところだ。(個人企業の一番の弱点でもある)



■診断は、胃がバケツのように大きくなったまま伸縮しない(胃アトニー、胃拡張)、胃に傷跡(胃潰瘍の傷跡)、胃酸で満タン(慢性胃炎、胃酸過多)。

咽も、腸も【蠕動(ぜんどう)運動】をしない。


要するに、私の胃腸は、完全ストライキに入ってしまったのだ。(笑)



■胃潰瘍跡は、おそらく中学時代に殴られた時の傷跡だろうが、それも含めて治療に入った。

・・が、治らない。


水を飲んでも咽に詰まる状態。(今だったら胃液吸引する事で楽になる)

巻き寿司1切れ食べるのに30分。

食パンの耳を取り1切れ食べるのに1時間(笑)

そしてしばらく横にならないと、胃が重苦しくて動けない。



この時もらっていた薬のひとつが、【無理矢理に胃腸を動かす薬】だった。

やがてその薬は、1週間使用して死亡例が相次いだので禁止された。

だが私は、その薬を13年間も飲んで居たのだ(笑)



■長年使用していた副腎皮質ホルモンの副作用で、若年性高血圧、若年性糖尿病、等々、病気の名前が覚えられない程の病気持ちになった(笑)

思い出して書いてもいいが、読む人は気持ちが悪くなると思うので割愛する。(笑)

以前、相談場で体験談として書いたら、「・・・、お大事に」と言われてしまった経験があるから(汗)



■この頃は、総合病院で行かなかった所は、小児科と産婦人科くらいのものだった(汗)

今年の夏、友人達と食事に出た時も、『ワシは滅多に病院行く事ないのに、行く度に、お前が居たぞ』と言われてしまった(笑)


この頃は仕事は順調で、黙っていてもドンドン注文が殺到する状態だった。

だからこそ、病院に行く事が出来ていた。




【仕事の成功と失敗】

仕事面では、外回りがキツクなった私は、県内では私の処以外では作る事が出来ないモノだから、仕事を[卸し業]に変えた。


この事が、やがて、自分で自分の首を絞める事になる。


この頃、情け容赦無い自分になれたら良いのだが(ほんとうに良いかどうかは疑問?)、私は【人の縁】を大切にするがゆえに、飛躍のチャンスを失った。

[卸し先の取引先]が全部解かるのだから、そこに直接私が行くことが出来ない。

次第に、新規の直接取引先が停滞してしまう事態になった。


もちろん総合的には、県内だけでも[卸し先]が持って来る1万件以上の企業の仕事があるが、利幅が少ない。

だから私が、[卸し先]を無視して直接取引をしたら、価格では負けないので、もっと大幅に利益を産んだ事と思う。



実際に、ある企業から「直接取引」の話が来た。

私は、その企業と取引している卸し先に、「これこれ、こういう事情で・・と、やむを得ない事情なので、今回は仕事を頂く」と電話した。

卸し先の相手からは、『この仕事を取られたら、私の店が立ちゆかなくなる。どうか、勘弁して欲しい』と、頼み、泣き落とされる。


こうした事に非情になれるかどうかで、企業の体質が解かるのだが、私は非情になれなかった。

私的な情けに溺れてしまったのだ。


ただし、その時の恩を知ってか?熱心な自民党応援団だったが、今では[幸福実現党]の支持者に回ってくれている。


【追記:2017.04.03.】

昨秋の市議選で、お願いに行ったら、『あんたにゃ恩があるからなぁ』と、応援頂いた。



■県内には、今では大きくなった企業がヨチヨチ歩きの頃に、そうした非情になれない私が身を引くことで、生き残って、大きく成長した処もある。

すでに代が代わっているので、そうした時代の頃は知らない社長達が殆どだ。

私はそうした、[人の縁を取るか、仕事を優先させるか]の二者択一の場合、[人の縁]を大事にして来たので、本当の企業人では無いと思う(汗)

だが、その分、多くの人達との縁は残っている。




【】

27歳の頃から胃腸が動かなくなった私は、食事が摂れないのだから、ドンドン痩せて行く。

鍛えに鍛えた筋肉も、生きる為のエネルギーに使われて、72㎏あった体重が48㎏まで落ちてしまった。
(現在は82㎏(汗))

この頃の同級生の中には、「もう、あいつは(私のこと)長くないぞ」とウワサされて、殺されていたようだ(笑)



人目にもそんな状態だった。

そして、

・その時々で最強のステロイド(副腎皮質ホルモン)を、25年使用。

・1週間で死亡例が相次いだ薬を、13年使用。


これだけを見ても、生きている方が不思議なくらいだ。

よほど生きる力があるのか、【生かされている】のだと思う。



■他にも、

2月の夜半に突然40度を超す高熱が出て、歯の根が合わないほど口元がガチガチ震えながら、急いで救急病院に行ったら、

当直医に、『風邪ですね。薬を出して置きますから、帰られて良いですよ』と言われた。


納得が行かない私は、質問する。

「頭もフラつかない、鼻や喉も普通。熱だけの風邪ってあるのですか?」

『そういう風邪もありますから、ご心配なく』と言われるので・・

「さっき計ってもらった血圧を縛ったゴム跡が、このように黒くなっています。私は、敗血症の患者さんが、こんな状態になるのを見ているのですが・・」


『そこまで心配されるのなら、血液検査をしましょうか』となり、1時間後の結果を見て「ガーン!あなた!今すぐ入院して下さい」となった事がある。

その時から24時間の丸1週間、抗生剤の点滴を受け続けた。


担当医からは私には何も言わなかったが、妻には「敗血症です。熱が下がらなかったら、お覚悟を」と言われていたようだ。

だから言ったのに(笑)

あの時、当直医の言われるまま帰っていたら、私はこの世に居ないかも知れない。



9年前の8月に心筋梗塞を起こしたが、この時もそうだった。

痛みには慣れているので(笑)、3日3晩、鈍痛・激痛を我慢していたが、とうとう我慢出来なくなって、土曜日に掛かり付けの町医者に行った。


「今までの痛みと違う。波が無く24時間ブッ通しで痛い。その痛みも肋骨の範囲内、前も後も全部が痛くて、どこがほんとうに痛いのか分からない」

「もしかしたら、心筋梗塞では?」


その町医者は整形医だったので、土曜の午後からも診察してくれる、3月まで大病院で働いていた循環器医を紹介してくれた。

血液検査、レントゲン、心エコー、心電図とも【異常なし】で、循環器医は『心配ありませんから、帰られて結構ですよ』と言う。

だけども私は、「絶対におかしい」と粘った。

『そこまで言われるなら』と、救急病院への紹介状を書いてくれて、7000円の無駄遣い(笑)



救急病院へ行ったら、【奇跡に継ぐ、奇跡】で、専門医でも見付け難い場所が詰まっていた。

すぐに緊急手術となり、一命を取り留めたが、果たして医者が助けてくれたのだろうか?


循環器医に「帰られて結構ですよ」と言われて、素直に帰っていたら、おそらく私は、その日の晩か翌日には、大変な状態になっていただろう。



何が生死の分かれ目になったのかは、私の長~い病気(笑)の経験から来るものだ。

「好調時と不調時の自分を知っている」からでもあるかと思う

不調時の自分を超えた症状に対して、医者に念押ししていただけだ。



■このように、病だけでも、今まで何度も命を落としてもおかしくない状態でも、不思議に間一髪の処で生きている。

いや、すでに生きているというより、【生かされている状態】としか思えない。

それほど多くの生死の境に居ながら、【生】の側に戻って来ている。


これは、ただ単に【運が良い】だけでは無く、もちろん私の医者を納得させる努力もあるが、【生かされている】としか思えない。




【胃腸に感謝の心、皮膚病を忘れた心で、全快】

話を戻すが、全然動かなくなった胃腸に向けて、「なぜ!動かないんだ!」と、長い間、私は胃腸を責めて居た。

その原因(慢性睡眠不足)を作ったのは、自分自身であることも知らずに。


■さらには、毎朝パンを買って来て、牛乳を飲んでいた。

普通に思えるかも知れないが、パンの成分の小麦粉は胃液の分泌が激しくなるし、牛乳は皮膚病の原因とも思えるようなものだった。


つまり、私のような病気の渦中にある人間が、摂取してはならない食物を、好んで摂っていたのだ(汗)

だから治るはずが無い!

・・のを、当時も今も、医者にも誰にも分からない。


長年の自己体験として、摂取物によって胃液の分泌が違う事が分かったのだ。



■小麦粉類で作られた食べ物を摂らないように心掛けると、膨れ上がって動かなかった胃が縮み始めて、少しずつ動き始めた。

半年もすると、すっかり普通に食事が出来るようになっていた。



■その後、約半年ご無沙汰だった胃腸科に行くと、先生と看護婦のヒソヒソ声が聞こえる。

『このフィルム、○○さんで間違いないか』、『間違いないです』


私が呼ばれて、目の前の写真を見ると、胃が縮んで普通に戻っていた。

「これって、ボクの胃ですよね?」

『私も、間違えたのでは無いかと確認したが、君だよ。あれほど酷かったのが、すっかり治っているので、信じられ無いが・・』


そこに映っていた胃腸は、すでにバケツのような胃では無く、綺麗な形に小さくなっていた。

ヘソ下にまで下がっていた胃が、ヘソ上にあり、半年間で10㎝は縮んで戻った。

容積にしたら、「普通の人の4倍ある」と言われていたので、1/4に縮んだことになる。



何をどうした訳では無い。

医者が出す薬が信用出来なくなり、医者に行かずに、【胃に優しい方法】を考えていただけだ。

そのひとつが小麦粉だった訳だが、それだけでは無いと思う。



■[幸福の科学]で学べば学ぶほど、原因が分かる。

大切だったのは、ロクに睡眠を取らずに、無理して働かせていた内臓諸器官に【感謝の念いが無かった】からだ。


それが、医者に行かなくなった事で、【どうすれば胃に優しくなれるか】を考え始めた。

そうした念いと共に、食物制限をしていると、完全回復した。



医者に掛かって13年間、危険な薬を飲みながら、仕事も制限しなければならない程に痩せこけた。


それが、たった半年で完全回復。

この頃から私は、医者に対しては【絶対】と言うことは無いと思い始めた。


若い頃、赤十字病院で働いていた為に、心の中に[医者神話]のようなものを作りあげて居たのかも知れない。




【不治と言われた病も】

頑固な皮膚病も、これまた【治療を忘れる】ことで、自然回復をした。

まさか、あれだけの皮膚疾患が、【心の持ち方ひとつ】で治るとは、思ってもいなかった。


30年間の危険なステロイド治療は何だったのか!?

ま、何事にも無駄が無いと教えられているように、病気治療を通して忍耐が鍛えられたようには思う。


何も薬の世話にならなくなったら、前述の若年性なんちゃら類も、全部治った。


それも[幸福の科学]に入信する前だ。



[幸福の科学]に入信後は、私の様々な経験の○×を付けるような感じでもあった。

だから私は、病気を治したくて[幸福の科学]に入信したのでは無い。

入信前には、誰から教わった訳でも無いが、経験として【心】が作用している事には気が付いていた。

それを明確に、具体的に教えられているので驚いた。



一時期の私は、霊障だったと思うし、それぞれの病気が長い。

長過ぎる(汗)


胃がまともに動かない13年。

皮膚病で軟膏塗り続けの30年。

ついでにノイローゼの7年を見ても、普通では無い(笑)


ただひとつ不思議なのが、私はどんな状況でも【塞ぎ込む】ような事は無かった。

いつも自然な笑顔は絶えなかった。


「笑顔は、免疫値を上げる」と、薬剤師の叔父が言っていた。




■病気の話を書くと、まだまだあるが、書いていて気持ち良くないので(笑)、この辺にする。

ただ、【貧・病・争】の【病】の中にあっても、
常に未来を見据えていた男が、ただならぬ病の数々をも克服して来た人間だって、居るのだと。


病の渦中にありながらも、悲壮感だけは発していなかったと。


病と闘っている間は、何十年も治らなかったのに、【病の自分を忘れたら、1ヶ月で治った】と。


【忍(堪え忍ぶ)】の一字で、何十年も必死で努力したけど、間違った努力だったと。


【反省や感謝の心】が芽ばえた時、さまざまな病気が勝手に消えて無くなったと。




【反省と感謝】

現在、病に苦しまれている方は、世の中には、そうした過酷な経験をして、克服して来た人間だって居る事だけは、知って置いて下さいね。

病の多くは、自分の心が創り出し、霊的な影響を受けている場合もあります。


私は、そのどちらも経験して来た者で、結局は【心の持ち方】なのだと、身を持って知った者でもあります。

本来は、【反省や感謝の心】で満たされれば、病の身さえも正常に治せます。



■私自身もありますが、医者から見放された難病の知人・友人達が、自然治癒しているのを、この目で見て来ました。

例えば、酷い喘息の友人が私と会話しただけで完治。

知人の喘息を5人の信者さん達と祈ったら、即、治ったことは、このブログにも書いています。


まさに奇跡と言うしかないのですが、私の中では、その奇跡が当り前のような感じさえ受ける時があります。



■今は妻がガンと戦っていますが、そうした話を書けば【善念、愛念】が飛んで来れば、【悪しき想念】が飛んで来る時もありますので、慎重になります。


ただ、手術前には末期癌と医者は思っていたようですが、開いて見れば、奇跡的な初期のものでした。

私の場合こうした【奇跡的】な事柄が多くて、

【当り前】のようになりつつある事に感謝を抱きながら、もっと謙虚な心にならなければと思っています。




【追記:2017.04.03.】

ここに書いていた妻のガンは、奇跡的に完全に治りました。

妻自身が作った病でも、妻の覚悟と、家族の求めが、またまた奇跡をくださいました。




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◆【自分記:第9回】争い事は嫌いだが、向かって来た者には容赦しない自分。・・そうしなければ命すら危ういものだった。


 
 【過去記事移動】 過去、このブログに書いている中で、今でも使えそうな話を移動します。 - 2007年2月11日のブログより。



猪瀬都知事。

あなたの言葉には疑問点が多過ぎますが、どうか【目的(達成)の為には手段を選ぶ人】であって下さいね。

ちなみに、日本の経済社会での、手書き領収証は【5000万円】では通りません。

手を加えられて【5900、5800、5600、50000、500000】に成り得るからです。

正式な手書きは、【一金五阡萬円也】と書きます。

都知事なら、ご存知の筈だと思うのですが・・




【余談】

【貧・病・争】は、どれも嫌だが(笑)

【争】は特に嫌なものだ。

私自身は、決して攻撃的な男では無い(と思う(笑))が、向かって来るなら戦う男だ。



■最近、あるネット知人に、「半沢直樹」と位置付けられたので、「何、それ?」と聞いた。

人気TVドラマの主役らしいが、【倍返し】が、お題目のようだ。


妻に、「倍返しって、当たっているかもな」と言うと、「当たってないよ」と言う?

【あなたは、倍返しではなくて、爆弾返しでしょうが!】

「・・・・・」

「そんなはずは無い」と反論したいのだけど、なぜか言い返せない(汗)

優しい男のはずなのに(笑)



■「怒らせたら怖い男」、「敵に回したくない男」、それが私のイメージのようだ。

・・何人からも聞いた言葉だが(汗)


普段はおとなしい男が本気モードになると、逆上せずに冷静に攻め込むので、確かに怖いかとは思う。

滅多に本気で怒ることは無いが、【間違ってる】と思ったら容赦しない処もあるので、常に自重しているつもりだ、が(汗)




【争】

【争】の大半は、母親だった。

母親との葛藤は、随分書いて来たので割愛するが、おおまかな話だけは書き記す。


私の母親は、【瞬間湯沸かし・ポット型で、豹変する】ので手が付けられなかった。


怒鳴る、暴れるは可愛いものだ。

包丁持って、本気で刺そうとして来るのだから、こちらも本気にならないと危険だった。



■何が母親をそうまでさせるのかと言うと、おそらく間違いなく【悪霊・悪魔の憑依現象】だ。

普段は人の良い母なのだが、「カッ!」となると、トタンに人が変わってしまう。


別人になる。

それも凶暴な別人になるのだから(笑)、家族はたまったものでは無かった。


私が3歳の時、夫婦喧嘩で、私は母親に抱きかかえられ、包丁を私に向けて「この子を殺してやる!」と叫びながら、大暴れした事がある。

それ以来、父親は、『お前達の事を思って、ワシはもう(母親には)何も言わん』と言っていた。



■憑依された時の母親は、本気で私を殺そうとしていた。

家族の中で私にだけ、だ。

母親に憑依している悪霊か悪魔は、(暴)とそっくりだった。


私は、なぜに、かくも(暴)に狙われるのだろう(笑)

・・と、本気で思ったことがある。



■幼少時から小学生までは、父親が防波堤になってくれたので、新聞の三面記事にはならなかった(笑)


中学からは、私の方が体格も出来たので、母親は包丁を振り回す事は少なくなった。

簡単にネジ伏せられるものだから、諦めたのかも知れない。


だけども、口だけは達者なものだ(笑)

「わりゃあ、ブチ殺すぞ!」、「おんどれが(お前が)寝てる時に殺してやる!」・・

とにかく、ブッそうな「殺す」と言う言葉が、簡単に出て来るのだ。


一緒に生活している実の母親から、殆ど毎日、そういう言葉を聞かされたら、あなたはどう思うのだろう、どうするのだろう(笑)



■私は、そうした母親の元で育ったのだ。

「よくぞグレなかった」と、自分を褒めてやろうかな。

誰も褒めてくれないから(笑)

ま、いい魂修業をさせてもらったものだ。

・・疲れたけど(笑)




【未来館での不可思議な涙、そして奇跡】

私は、2000年の[幸福の科学:総本山]での[ミレミアム祭]で、不思議な体験をした。

未来館に1晩泊まり、翌朝、【太陽の瞑想】があった。


私はそこで、太陽ではなく、青白い月のような光を見た。

(なんだ、太陽ではなく、お月さまじゃないか)と思ったトタン!


その光が、私に向かって来たと思った瞬間!

【パァー】と光が拡がり、映像が出て来た。

実際は、映像なんてものでは無くて、現実に目の前で起きている感じだった。


■見たことのない笑顔の母親が、未来館の茶話室で、みなさんにお茶を注いでいる場面だった。

(ああ、これが本当の母親の姿なんだな)と思って観ていたら、なんと!私は泣いて居たのだ。


自分では泣いている感触はまったく無かったのだが、胸にポツンと何かが当たったので、下を向いたトタンにドバーっと、涙が床に落ちた。

気が付くと、私のカッターシャツの首から胸は、涙でビショ濡れだった。

私は、自分で気付かないまま、母親の映像を観ながら泣いていたのだ。


◆仮面の母


上記の通り、そんな母親でも、[幸福の科学]の信者になったら、まったく豹変しなくなった。

未来館の映像で観た通りの母親の姿になっていた。


2年前、母親は他界したが、無事に天国に還っていると知り、安堵した。




【悪意ある者】

話は代わるが、以下はネット上で見掛けたものだ。

元信者です。宗教界のオレオレ詐欺・犯罪教団 幸福の科学の悪事を暴きます。


ちなみに、ここに書かれている人物は、私では無い。

私は、人様を「地獄に落ちろ」とは絶対に言わない。



この筆者は、間違った事を述べているので、真実を伝えようと思っているが、なかなか踏ん切りが付かない。

彼のような粘着タイプは、一端関わると、付きまとって来る鬱陶しいタイプなので、大の苦手なのだ。


かつての母親とそっくりだ。

だが、私の人生を一転した記念日の出来事を、こうまでネジ曲げられては困る。

迷惑だ。



■職員が下着泥棒したのは事実だが、本当の宗教職員かと言えば、違う。

ある職員さんが、【総本山と未来館を行き来するバスの運転手】として、2~3ヶ月前に連れて来た人だ。


だから、職員と言えば職員にはなるが、断じて、総裁先生のお抱え運転手では無い!

大型バス免許を持っていた無職の人を雇っただけだ。


怒りを通り越して、笑わせてくれる。



総裁先生の車の運転は、並の人には絶対に務まらない。

私の支部に居た支部長が、総裁先生の地方巡錫の運転手を頼まれて、断ったそうだ。

体調・心境が万全でないと、務まらないそうだ。


多くの信者を導く支部長であってそうなのだから、数ヶ月前に雇った人に務まる訳が無い。

そんな事すら解からない人が、もっともらしく大嘘を述べている。



このバスの運転手のお陰で、2000年ミレミアム祭は、【中止】も囁かれていた。

そこに、総裁先生が来られて「明日(のミレミアム祭)は、どうするのですか?」と聞かれたようだ。


私は、その言葉を聞いて、総本山の総裁先生を探し回った(笑)

真面目な話なのに脱線してはいけない。(汗)



■総裁先生に尋ねられた館長さん達は、「(ミレミアム祭を)やりたいです。やらせて下さい」と、言われた。

「それならば」、と、総裁先生は「警察に行って、こうこうこうした事を尋ねて下さい」と言われた。

そして、ピタリと報道は止んだ。

なぜ?止んだのかは知っているが、具体的な事は書けないので、ご勘弁。

そうした経緯がある。



■[幸福の科学]にとっては、確かに職員と言えば職員だったのだが、警察に、ある事を確認しただけで治まる、傍迷惑な人だったのだ。

私は、その日(報道を受けた日)は現場に居たので、こうした詳しい話を知っている。

ほんとうに元信者であるならば、【和合僧破壊】にならない内に、猛省を望む。



■こうして書いているだけで、私は頭痛持ちでは無いのに、後頭部がズキズキ痛む。

何かが来ている。

おそらく、母親に憑依していたモノの類・仲間と思うが、【迷惑だ!邪魔するな!】

・・と、書いたトタンに頭痛が消えた。

嘘では無い。嘘は書かない。


余計な寄り道をしてしまったが、とにかく【貧・病・争】の極限を味合い、なんとか克服して来た事を伝えたかったし、書き残したかった。




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Trackback [0] | Comment [0] | Category [自分記] | 2013.12.09(Mon) PageTop

◆【自分記:最終回】‹堕ちる処まで堕ちないと分からない者達›に囲まれた人生だったが、まだまだこれからだ


 
 【過去記事移動】 過去、このブログに書いている中で、今でも使えそうな話を移動します。 - 2013年12月12日のブログより。



時代劇で、「おのおの方、【殺気】でござる」と言う場面を見られた人は多いと思うし、言葉は知っている人も多いと思う。

ただ、その【殺気】が何かは、本当にある事かは解らないのでは・・、と思う。




【気と念(念波)】


【気】が付く単語は、数多くある。

殺気の他に、

人気(ひとけ、にんき)、邪気・無邪気雰囲気強気・弱気勝ち気・負けん気呑気・・と、ちょっと思い付いただけでもこれだけある。

病気もそうだ。



この【気】は、【気の持ち主】であり、【念】に置き換えたら解り易いかも知れない。


【念】とは、【念い】であり、【念波(念いの電波)】でもある。

【気】を、【念いの電波】に変換すれば、邪気なら邪の念いの電波となり、どうして伝わるのか解るかと思う。




人間は、【念】で、微弱電流を創り、微弱電波を流している。

測定出来るものでは無いが、【脳波】は測定出来る。

そこに、微弱電流・電波がある事が解かると思う。

そうした【念いの電波を、発信する人も居れば、受信する人も居る】って事だ。




■霊能力者でなくても、武士のように【心を研ぎ澄ます修行】の達人域になれば、物陰に隠れている者が放つ【殺人念波を受信出来た】と思う。

私も母親との葛藤の中で、【身を護る手段として、体中にアンテナを張っていた】ので、かすかな物音や気配を感じ取っていた。


だから、昔の武士が言う【殺気】も解かる気がする。

江戸時代の武士の頃は、今のように車が通るわけでも無く、シーンとした静けさの中に潜む【殺人念波】は、達人となれば感じ取れたと思う。




【スイッチのオン・オフ】

ただ、どんな達人でも、どんな霊能力者でも、スイッチのオン・オフをしないと、オン時に使うエネルギー消費で、疲れ切ってしまうだろう。

それは、勉強やスポーツでも同じだが、緊張状態・集中状態の継続は、個人差はあっても、それぞれに限度があるからだ。

私も経験があるが、屈強なプロレスラーでも、体中の緊張を緩めているオフ時には、腹を殴る小学生の一発でも倒れてしまうとの事。




優秀な霊能力者は、このスイッチのオン・オフが上手いものと思える。

そして、雑念波が飛び交う中では、スイッチをオフにして置かなければ、祭り太鼓が響き渡る中の居るような感じかと思っている。


一般の人でも、心のスイッチのオン・オフが上手くなれば、極端に言えば【敏感な時と鈍感な時】との使い分けが出来るようになる。


問題は、スイッチ・オン状態が続けば、体力・精神力が保てなくなると言うことだ。




■私は、子供の頃、このスイッチ・オン状態が続いて居たので、軽ノイローゼ状態になってしまった。

いろんな人達が発する、あるいは霊界から来る【想念波】を、フィルターなしの無防備のまま受信してしまうのだ。


だから、「やばい」と思ったら、スイッチを切れないのなら、チャンネルを切り替えていた。

【楽しいこと】を考えるようにと、自然となっていた。


世の中には、こうしたスイッチのオン・オフが出来なくて、あるいはチャンネルの切り替えが出来なくて苦しんでいる人達も多々見掛ける。




■私も経験があるが、病の時には何事にも敏感になってしまう。

そこに悪しきモノとチャンネル(波長)が合った場合、憑依されたりの霊的作用を受ける事も少なくない。



世の中の自称霊能力者(とくに女性に多い)には、病気を縁にして、霊障になっている人達も少なくない。

そうした人達は、他人に見えないモノが見えたり、聞こえないものが聞こえたりするので、自分では霊能力者だと思っている人達も少なくない。


こうした人達が気を付けなければならないのが、心のスイッチのオン・オフだ。心のチャンネルを切り替えることだ。


私は[幸福の科学]に入り、自然とそうした事を憶えて来た。

普通の人より多少は敏感なので、見たままの事を言えば奇異に思われる(笑)ので、言葉に出さず黙して居た事は少なくない。




■そして、【悩み相談(いじめ相談含む)】に出た時、心のスイッチがオン状態では、【マズイ】と思った。

悩み相手が抱えているモノが、文字を通して飛び込んで来るのだ。


だから次第に、心のスイッチのオン・オフが出来る自分になっていた。

さらに選挙となると、もう心のチャンネルは、もろ3次元波動だ(笑)


心のスイッチのオン・オフどころか、オフ&オフ状態だ(笑)




■5年前の選挙時には、なかなか【元の状態に戻らない】ので、困った。

とうとう支部長に相談したら、「私もです」とアッサリ言われた。(笑)

(みんな一緒なんだな)と安堵した。(笑)




【気と空気】

話が脱線している(汗)

私は霊能力者では無いが、【気】は感じる、察する。


静かな家で、静かな時間帯に考え事をするのが好きなのだが・・、

そんな時、外出から帰って来た子供達が持って帰る、荒々しい雰囲気を察知する事は度々だった。


精妙な空間に、荒々しい空気を持つ者が入って来るから、場の空気が変わる。

だから、側を歩く子供達が、どうした場所に居て、何をして居たのか位は、醸し出す雰囲気で解かる。


正しき信仰を持ち、曲がりなりにも信仰者として生きている者にとっては、たとえ子供達と言えども、信仰心無き者とは大きな隔りがある。






【なぜか?弟は経済的に攻めて来る、と感じてた】

【母親は精神的に、私を攻めて来る】は前回まで書いたが、【弟は経済的に、私を攻めて来る】は、巧妙なものだった。

本来の弟の性格は天真爛漫な男だったのだが、父親の死を境にガラリと変わってしまった。


私が大きな問題をすべて片付けて、松山に2年と入院の1年を合わせた約3年間の【家を護る役目】は弟には負担が大きかったようだ。

私から見たら、大きな問題はすべて片付けて居たので、何がそんなに負担なのか?と思うのだが、『俺には兄貴の真似は出来ない』と名古屋に行って、行方不明。(笑)



■妹から、弟の私が居なかった間の事を聞くと、【暴れる男】になっていたようだ。

「S兄ちゃんね、(暴)に入り掛けたのよ。大きい兄ちゃんが帰って来るのが遅かったら、あの男の仲間になって(暴)になってたよ」と言う。

・・情けない。

そんな弱い男だったのか、・・と思いつつ、弟は名古屋の製陶工場に就職した。

この就職が、その後の弟の人生を狂わした。

(その名古屋の製陶工場は、数年前に北朝鮮に輸出禁止の物資を作り摘発された工場だった)




■やがて弟は約2年間所在不明になり、連絡も付かない。

そして、2年後、いきなり「明治大学に行くから、4万円(今の額にすれば約50万円)の入学金を出せ」と言って来た。


『そんなお金があるはず無いじゃないの!』と母親は電話で話していたが、私が話を聞いて「解かった。お金は俺が出す。頑張れよ」と、お金を送った。



その後は、明治大学で学んで居るものとばかり思っていた。

弟に言わせれば『学生運動で大学行っても門は閉まっていた』と言う。


そして、どれだけ勉強したのか知らないが、トコロテン的に卒業し、九州の食品会社に入った。

時代は高度成長期に掛かり、5年後には年収は300万円にもなっていた。(当時の平均年収は200万円)


ひとり暮らしだったから、かなり貯蓄が出来ているはずだが、弟からは『金が足らない、金が足らない』の電話が入る。

税金の督促状まで持って帰るので(笑)、母親は嘆いていた。



■そして盆に帰って来た時、『お前の弟をワシにくれ』という、私が基礎母体を創った会社に就職した。


この時私は、3月に妻と結婚していたので、その秋には、弟が転がり込んで帰って来た。

当時の私と母では、1ヶ月に必要な米は微々たるものだが、2人分食べる弟が帰るなり、3倍の米が要る(笑)


弟が帰って居るのを知らない、お米屋さんの【おタクの嫁さん、もの凄く食べるんだね】は、今でも伝説の言葉になっている(笑)

それほど弟の【食】に対しては、常に飢えている感じを受けていた。




母は、弟には金は持たせず、弟の給料全部を取って、弟には小遣いだけを与えて、残りは全部貯金していた。

「弟に任せていたら、全部使ってしまう」とのこと(笑)

それで弟は、数年後には結婚出来た。

母親のおかげだ。




もちろん結婚したトタンに、二人の男の面倒を見る事になった妻のおかげは大きい。

妻は言う。

「私は、あなたの嫁に来たと思ったのに、食事は弟さんの為に作っていた」
(笑)

この頃の私は、自分記に書いていたように、ロクに食事も摂れなかったのだ。




■この、一緒に生活していた頃、念の為にと、自堕落な弟に釘を差した事がある。

その時点で、【裕福な兄貴と貧相な弟】の構図が出来ていたからだ。


もし、その時点で、弟が【マルクス主義者】と知っていたなら、私の選ぶ道はまったく違っただろう。


私は弟に、「この家屋敷と財産は、親父が残した負債を、俺独りで返して得た物だからな。お前は、この家の財産をもらう資格は無いからな」

「お前は今まで、1円でも親父の負債返済に協力したか?俺から借りた金すら返してはいないじゃないか」

「だから、この家屋敷と財産は、俺が働いて買い戻したのだからな。間違っても財産分与など考えるなよ。お前達は法的にも財産放棄してるんだぞ」

弟は、「分かってる、すまん」と言っていた。




■その後結婚した弟夫婦には、前もって、こうした釘を差して置いたにも関わらず、
私には言えないので、妻に「財産分与の権利」を主張していた。

私が
「父親の財産は借金だぞ。そんなに借金が欲しいのか?」と伝えて以来、家に寄り付かなくなった。




【事後報告】


それから、5年経った頃、「兄貴、印判を押してくれ」と、いきなり弟がやって来た。

「何事だ」と言うと、【家を買ったから、保証人になってくれ】と言う。


私は、「家を買った?だから保証人だと?俺に一言も無く、勝手に家を買うのか?今のお前の給料では無理だ。やめて置け」と言うと、

弟は、「もう手付け金を打って、契約して来た。保証人があれば買える状態なんだ」と言ってローン返済プランを見せる。


私は、「やめて置け。このプランでは無理だ。毎年支払額が上がっているじゃないか。どうするんだ」

弟は、「大丈夫さ、毎年のベースアップでやれる」と言う。


私は、「お前な、ベースアップは当然じゃ無いんだぞ。会社が不景気になったらどうするんだ?」

弟は、「大丈夫。その時には社長が家を買って貸してくれる事になっている。だから兄貴は保証人になってくれ」と言う。



私が何度も、「まだ家の購入は早い。このプランでは無理だ」と言っても聞かない。




■「そもそも、俺に一言の相談も無く、お前と社長で決めたのなら、社長がそこまで言うのなら、社長に保証人になってもらえ」と、突っぱねた。

そして私はその社長に電話した。

「いったいどうなってるんだ!あんたなぁ、俺との約束守れよな。あんたは俺に【弟には家を買ってやるから連れ戻してくれ】と言ったじゃないか!」

「なのに、困ったら家を買ってやるだと?俺はそんな話はしていないぞ!あんたが弟の保証をしろよ!」

そこの社長は私より10歳上だ(笑)


困った声で、泣き声で、「女房が説得出来んので、すまん。約束は守るから、今は保証人になってくれないか」と言う。

「あんたなぁ、【約束】って、どういうものか知ってるか!まだ弟には家は要らん!いい加減にせんかい!」と、突っぱねた。


その後「契約破棄したら手付け金が戻らない」だの、あれこれもめたが、最終的には、その社長が責任を持つと言う事で、私は保証人の判を押した。



それから3年で、弟は、その会社を辞めて、再び私の家に転げ込んで来た。

だが、結婚しても預金ゼロ(笑)。

元社長との約束も、弟が会社を辞めたので反故。

すでに家は購入し、毎月の住宅ローンが覆いかぶさる。



■私は弟に、家に戻って来るのなら、「1.000万円の預金と、500件の取引先。月5千万円の売上が見込めるなら」と、条件を付けていた。

だが、『預金ゼロ(笑)だけど、500件の取引先は確保している。月5千万円の売上はそれ以上行く』と言う。

「その500件の取引先を見せろ」と言うと、元の会社から持って来た取引先一覧を見せる。


「お前、この取引先が全部、お前に付いて来てくれると思っているのか?」

弟は、『絶対に大丈夫』と言う。


「お前はとにかく甘い見通しで、自分が思った通りになると思って居るぞ。世の中、そんなに甘くはないぞ」

「今まで順調に来たのは、お前の力では無いぞ」

「俺があそこの基礎を創り、お前が入ったトタンに競争相手が倒産したから、独占状態になったからだ」



「だけども、そこから飛出したら、そうは行かんぞ。競争の中に放り出されるぞ」


「だから、お前には無理だ。新しい就職先を探してやるから、そうしろ」と言っても、【絶対に、仕事は成功出来る】と言って聞かない。




【】


この時点で、弟家族を見切って、見捨てていれば、今の私は無かった。

悠々自適の日々を送って居るだろう。

信者も1支部が出来るくらい増やして、実現党支持者も当選するだけの支持者を増やして居るかも知れない。

・・決してオーバーな話はしていない。



■だが現実は、この弟に完全に騙されてしまい、「金くれ、金くれ、金が、金が」と、弟が作り続ける借金の尻ぬぐいをするハメになってしまった。



この時の私の気持ちとしては、大人の弟夫婦なんてどうでもいい。

だが、甥っ子や姪っ子が路頭に迷う事だけは避けたかった。



私のその甘さに見事に弟はつけ込んで、私から金品を奪いとる日々が続いた。

奪い取るだけでは無く、私の知らない内に私の印鑑を使い金を借りていた。




この弟は、【堕ちる処まで堕ちないと分からない人間】だと知り、いつ切ろうか、いつ切ろうかで、とうとう15年の歳月が流れた。

その間、弟が作った借金は1億円程度になる。


とうとう弟は、自殺未遂を起こした。

それをキッカケにして弟の会社を破産させた。


弟夫婦を高利貸しから守る為に、自己破産をさせた。


とうとう、ほんとうに、堕ちる処まで堕ちてしまった。




■なぜに、私がそこまでしたのかと言うと、自分でも解からない。

ただ、今になって思うに、「あれで良かった」と思っている。

単なる、お情けではない。

弟の性格には、自己破壊念がある。

もし、援助をしなかったら「一家離散どころか、一家心中」までやってしまう男だ。

それだけは、何としてでも避けたかったのが、ほんとうのところだ。


実際、一家心中するには子供達が大きくなっていたので、単身自殺を試みた。

試みたと書いてはいるが、ここでも奇跡現象が起きて、眼が醒めた。


家族や妹達にも、「身内から犯罪者を出さなかっただけでも、良しとしよう」と言うと、『うん、そうだね!ほんとうにそうだね!』と言ってくれる。

憎らしいのは弟ではなく、弟を変えた思想だった。




【そして】

5年前、「お前の自己破産は高利貸しから守る為だったのだから、破産期が解けた今は、お前の借金返済を手伝えよ」と言った時だった。


『ワハハハハ、兄貴、俺はマルクス主義者だぞ。すっかり騙されただろう』


「そうか、それで解かった」


自分の借金返済の手伝いは、マルクス主義者なら無理だろう。

【金持ちを引きずり降ろして貧乏人にする】のが、彼等の役目と思っているからだ。

その意味での弟は、見事に目的達成した事になる。


「・・まあ、お前が(暴)に入って、他人を殺めたりするよりはマシだけどな」


『ワハハハ、兄貴、(暴)なら、すぐ近くに中学同級のMがいるぞ』


バカモン!誰がそんな話をしてるか!」

「そのMの姉貴と俺は友達だぞ!姉貴の苦労を教えてやるから今すぐここに連れて来い!」

「お前は、そんなに人を騙して面白いのか!そんなに俺をおちょくって楽しいのか!

「いい加減にせい!」


私の「いい加減にせい!」の言葉が出た時は、本気で怒っている時だと知っている弟は、うつむいたまま黙してしまった。

この弟も、私が本気モードになった時の怖さを知っているようだ。



■先日、弟に大金貸してくれている私の友人に、「弟は少しずつでも返す気が無さそうだから、あなたから弟を裁判に掛けてくれないか」と尋ねた。

友人は、「まあ、こんなご時世だから、しかたないな」と言ってくれては居るが、そうした事が、今の私の手枷足枷になっている。



■事実上は、すべて弟の負債だが、知ると知らずと、印鑑付いて保証人にされてしまった私の責任でもある。

だから私は、こうした友人達への遠慮もあって、大袈裟な動きが出来ない。


「あの男は借金も返さないで、宗教にのめり込んでいる」と、要らぬ事を言われたくないし、幸福の科学の信用を落としたくない。



■だけども、デフレのこの時、同業者の9割が総崩れしている中でも、勝ち残っているだけマシだと思いたい。

今の私は、そうしたジレンマと戦っている。



■同業者が倒産・廃業しても、私は、まだまだ飛躍出来る案は持っている。

案を具体的にして出す度に、資金力のある同業他社に真似られて先を越されては居るが、何のそのだ。


16歳の時ほど体力は無いが、最後の最後まで残ってやる。


すでに日本一にはなったが、日本で最後の一店舗になるまで残ってやる。


そんな気持ちで仕事をしている。



【追記:2017.04.03.】

ビックリするような母や弟だが(笑)、今では母は天国に、弟は必死で働いている。

弟からは、マルクス思想は抜けた。

そして、恵まれた家族や親族が居ることに感謝の念は耐えない。


この話を書いて3年経ったが、同業者が全滅の中、売上は3倍増まで伸ばした。

デフレ下で、どんどん同業者が消えたり形を変えている中、淡々と頑張っている。

もう若い時のような無理は効かない(笑)




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Trackback [0] | Comment [0] | Category [自分記] | 2013.12.12(Thu) PageTop

◆【自分記:追伸】共産主義者との出逢いと相克。


久しぶりに2週続けて何でも言って委員会]を見たが、[櫻井よし子]氏が出て居られて、なかなか良いものになっていた。

ただ少し、津川氏の考えには同調出来る面と出来ない面がある。

改めて取りざたす程のものでは無いが、氏の中には【60年・70年安保反対世代】が持つ独特のものが漂っている。

大人になって、世間に揉まれた人でも、未だに若き頃に受けた洗礼が抜けきれて居ないのかと思わされる発言もある。

影響力のある人だけに、言葉は慎重にお願いしたい。




【松山赤十字病院】

1968年春、私は[松山赤十字病院]のアルバイト面接を受けた。

合格して職場案内されながら、「これから行かれる職場には、危険な思想の人達が居るので、惑わされないように」と、注意を受けた。

だが、当時の私(19歳)には、何を意味しているのか解からない。(暴)関係者か?と思ったくらいだ(笑)

職場は楽しく、和ごんだもので、私は、この注意された事をすっかり忘れていた。



■当然、職場には、労働組合もあったし、組合事務所もあった。

だが、アルバイトの私には関係ない。

昼休みや、就業後には組合事務所に行って、運動用具(バット、ミット等)を貸してもらっていた。

だから、組合長とも仲良くなり、何等も違和感を持っていなかった。





【共産主義者】

その夏、石鎚山中の【大川ヶ嶺キャンプに集まれ!】というキャッチフレーズの元、多くの職員さん達が参加されるので、私も加えてもらった。

2013-12-24-1-1.jpg 


私としては【夏の慰労会】のように思っていたのだが、とんでもなかった(笑)

[松山赤十字病院]だけでは無い。四国中の労働組合員が集るキャンプだった(汗)

キャンプファイアーを大勢で囲み、【労働歌:頑張ろう】の大合唱だ。

嫌でも憶えてしまう(笑)



■ま、当時の私は【毒にも薬にもならない男だった(笑)】し、病院内では知られていたので、キャンプ仲間に加えてもらえたのだろう。

もちろん、アルバイトなので労働組合への誘いも無かった。

ただし、商売屋に産まれた私にとっては、彼等の行動そのものが、違和感を超えた嫌悪感を憶えるものだった。



やがて、この[大川ヶ嶺キャンプ]を境にして、[松山赤十字病院]内で異変が起きる。

あちこちに【組合便り】が貼られるようになり、看護婦達の間でも【病院派、組合派】が囁かれるのが聞こえて来る。


私は、こうした、なんちゃら、かんちゃら派閥が、大嫌いだ。

だから与えられた仕事を、もくもくとこなしていた。

だが、【ただ事ではない、何かが起こるぞ】という予感はしていた。

組合、組合という言葉が頻繁に聞かれるようになったからだ。





【労働ストライキ】

ある日、いつものように職場に出掛けると、[松山赤十字病院]の玄関先で看護婦さん達が腕を組んで、【通せんぼ】だ。
(当時の[松山赤十字病院]では、アルバイトの私は、靴を預けて玄関から出入りしていた)


「○○君!今日はダメよ!仕事は出来ないよ」と言う看護婦さんの言葉に【ムッ!】とした私は、ピケを強硬突破をしようとした。


(俺はな、アンタ等と違って日給・時間給なんだぞ。俺の仕事のジャマをするなら容赦せんぞ!)
の思いで、力ずくで、押し倒してでも通るつもりだった。

そんな思いの私の様相が、いつもと違うのを察知したのか、看護婦さん達の顔色が青冷める。



■さすがに女性を押し除ける事は出来ないので、男共が固まっている処へズカズカと向かった。

本気で、この男共を押し除けてでも、強引に入るつもりだった。


その時、組合長が「通してあげなさい」と言ったので、事無きを得たが、押し合いへし合いにならなくて良かった。

もしも、病院内のヤワな男共と揉み合いをしたら、ケガ人が出ただろう。

彼等は、私の右手が10㎝ブロックを割る威力がある事を知っている。その男が、烈火の如く向かって来るのだから(笑)



その後の私はピケを開けてもらって仕事に入る。

いつも満員の外来はシーンとして静まり返っている。

(大手病院が、こんな真似をして良いのか?)と、怒りと疑問がゴチャゴチャになりながら静まり返った廊下を歩いていた。


・・が、廊下を曲がったトタンに、眩しい光で前が見えない。

(なんだ?なんだ?)と思いながら進むと、TV(南海放送)のカメラ撮影だった。


その直後のニュースから、【松山赤十字病院で就労条件改善を求めてデモ騒ぎ】が報道。


【誰も居ない外来】と写し出された中を、私1人が歩いていた(笑)

1日に何度も同じ場面を報道されるので、あちこちから「○○君!TVに出てたよ」と言われる(汗)

これが私の最初のTVデビューだった(笑)



この看護婦達のストライキに大きな疑問を抱いた私は、労働組合長に私信を出した。

匿名で、思いのたけを書いたのだが、労働組合長とスレ違うと「ニヤリ」と含み笑いをされた(汗)


出す前に、相棒に見せて是非を問うたのだが、「こんな事書くのは、○○さんしか居ないんじゃないの?」と、とりあえずは称賛されたものだった。

もしかしたら、彼の言う通りだったのかも知れないと、今でも思う事がある。



■書いた内容全部は思い出せないが・・、

【大病院の医療がストップするストライキは、間違っている】

【労使交渉が決裂したのなら、実力行使に出る前に、世間に訴えるべきでは無かったか?別の方法は無かったのか?】

【患者の迷惑に対しては、どのように責任を取るつもりか?】等々、書き綴った。

(この時の手紙や資料は残してあるはずだが、倉庫の山積みの下になっているようで、探したが見付ける事が出来なかった)





【全学連と学生集会】

この頃は、【1970年安保】と呼ばれる時代でもあり、愛媛大学の屋上から火炎ビンが投げ落とされるのを目撃している。

だが、夜なので顔も見えない。(卑怯者め等が)と思いつつも、どうする事も出来なかった。

もちろん昼間であっても、愛媛大学の敷地に入る事は出来ないが、私はとにかく、そういう【かぶれた輩】が大嫌いだった。



友人に、「ちょっと来いよ」と一緒に行ったのが、当時の流行だった【学生集会】だった。

正直、彼等の話はバカバカしくて聞くに耐えなかったので、(早く終らないかな)と、余所事を考えていた。


そしたら、幹事にあたる者が「○○君、君は何も喋らないが、何か意見を言え」と言う。


「俺はいいよ」と言っても、「せっかく来たのだから、思った通りを言え」と言う。



■やむなく、爆弾炸裂だ(笑)

「俺は商売屋の息子だぞ。はっきり言うが、俺には、お前等の言う事はサッパリわからん」

「みんな平等だと?何がだ?」

「汗水たらして働いた者も、怠けた者も同じ賃金かよ!そんな事が、日本で通るかよ!お前等、甘えるんじゃないぞ!」


ギャアギャアとウルサイ反論が始まった
(笑)

「やかましい!・・まあ、ちょっと俺の話を聞けや」

「お前等、親から仕送りしてもらって大学行って、こんな事やってるけどな。俺は、昼間働いた金で、自分の力で勉強してるんだぞ」

「お前等のマルクスのやり方が正しいと思うのなら、いい事教えてやるよ」


「ブルジョアだっけ?俺から見たら、お前等こそがブルジョアなんだよな。だから俺に、明日のパンを持って来いよ!」


全員が黙ってしまって、場はシーン。

そうした面白い?事もあった(笑)



■この場には、暴力学生が居なかったので、こうした口も利けたが、角材振って、石や火炎瓶を投げるような輩が居たら、逃げ出しただろう(笑)

ただし、そうした輩が怖いのでは無い。ケガをさせてはいけないから、そうした輩と戦うのが怖いのだ。


一度だけ角材持った学生と一触即発状態になったが、私と友人ふたりと彼等とでは、かなりな体格差があるので、ふたりとも負ける気はしなかった。
(この友人は、後に警察官になった)

争いにならず、自然とそのまま別れた事もあった。



こうした、今の世界各地の暴動のようなものが、かつてのこの日本でも起きていたのだ。

今ではバカバカしい話だが、マルクスに被れた者達は、本当に「北朝鮮が夢の国」だと思っていた。

この日本でも、そうした学生同士の国内内乱の時もあったのだ。



■やがて、そうした学生達の殆どは、一時の熱病から醒めて社会に入るが、ごく一部の者達は地下組織となって動いている。

私の高校同級生でも、一人は大手企業に勤めながも公安に目を付けられていると噂を聞くし、一人は地下組織に入って現在も行方不明だ。


それも、【頭の良い奴】が、そうなっている事が不思議でならない。

高校時代は、頭だけでなく、心も良い奴だったのに・・。




【】

経済は、共産主義⇒資本主義⇒社会主義と変遷して来たが、今の日本は【社会主義国家】だ。

社会主義とは、マルクス共産主義に修整を加えたものを言うが、大元では共産主義と大差無いので、間違われやすい。



共産主義の特長は、現中国を見たら解りやすいと思う。

一党独裁で、全体主義国家が多い。(多かった)



共産主義の修整されたものが社会主義だが、本物の修整にはなっていない。

どちらも【神仏】を否定し、【唯物論国家】を形成している。

それが共産主義や社会主義の大きな間違いだ。



■日本人は、米国見習いの資本主義社会だと思っているかも知れないが、現状は【世界一の社会主義国】になっている。

韓国も社会主義国だし、米国も資本主義国家から社会主義国家へと向かっている。


平行して、
【神仏を否定】する人々が増えて居るので、天上界の神々の怒りは頂点に達している。


とんでもない時代になってしまったものだ。





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Trackback [0] | Comment [0] | Category [自分記] | 2013.12.24(Tue) PageTop

◆【天国vs地獄】幸福の科学に出逢えて良かった!嘘偽りの無い本当の話


 
 【過去記事移動】 過去、このブログに書いている中で、今でも使えそうな話を移動します。 - 2013年4月6日のブログより。

  過去記事の分類整理中です。過去に書いていた内容が、今でも通じるものを再UPしています。
  ブログ記録でもあるので、記事内容は変えていません。 変えないで「追記」で示します。
  古いレイアウト(行間、大きさ、色分け、仕切り、等)だけは、今の私に沿った形にしています。


私は、幸福の科学の会員だが、市議会・県議会・国会と、多くの自民党議員を出して来た政治家・経営者一族に産まれた。

この世的な血繋がりでは、吉田松蔭や乃木希典は、祖父母の親族にあたる。

今、〔幸福実現党〕の党首をされている人からは、「そういえば、○○さんは、乃木希典に面立ちが似ていますね」と言われた事もあった。



私としては、面立ちよりも、育てられた環境がそっくりだと言いたい。

とにかく母親の厳しかったこと(笑)。

それも尋常なものでは無い!

何度も殺されかけた(汗)


いわゆる【憑依現象】であり、親子仲むつまじく並んで仕事をしていても、何か一寸した事で豹変していた。

障子の隙間が1㎝開いて居ただけで、いきなり、「おんどりゃあ!ワシを殺す気か!」となり、手が付けられなくなる。


包丁まで持って来て振り回すのだから始末に負えない(笑)



普段の母は、正反対で、言葉遣いは丁寧な人だ。近所の人達の悪口は言わない。

無私無欲の人で、常に家族に思いが向いていた。


だが、そんな母が一旦豹変すると、言葉から行動までヤクザになる(笑)

母親に包丁振り回された位では、いくらでも防御出来る。

振り回す包丁を奪い取る位、たやすい事だ。


ただ・・

その時の母親の目は別人だ。

私には【般若面と同じ顔】に見えていた。



■そんな母親から私達子供を守り続けた父親は心労で倒れ、若くして亡くなった。

父親の跡を継いだ私は、それはもう筆舌に尽くし難い程の心労の中で、家族を守って来た。


そんな母親の朝の挨拶は「おはよう」では無い。

「昨晩は苦しかった。あんたを何度も起こそうと思った」が、50年近くの朝の挨拶だ(笑)


正直言って、父が亡くなった時、母と代わってくれて居れば・・と、思ったものだ。



父亡き後は、ほんとうに大変だった。

寝る間を惜しんで働いたので、(強制的に?)いろんな病気になった。

◆病魔との戦い


まさに【四苦八苦】の極限を経験して来たものだ。




親子であって、私と同じ真似が出来る人は、そんなに多くは居ないと思う。


朝は、前述の言葉で自分の苦しみを訴えて来る。

少しでも逆らえば、急に豹変して大暴れする。


棚や机の上の物は放り投げる。

バケツ水をブッ掛ける。

窓ガラスは割る。

それでも適わないと思ったら、寝間着のまま家を飛出して、1~2時間は裸足のままでお散歩だ(笑)


殆ど、「気●い」と言っていいほどだった。



■実際、父親が亡くなる年には、「○○よ・・お母さんを精神病院に入れてもいいか?」と、父親がか細い声で聞いた事がある。

それほどまで父親は精神的に追い詰められて居たのだと、亡くなってから気が付いた。

父親は工場を経営していた事から、近所や親戚からも「大将」と呼ばれる程の人格者だった。


そんな父親が伯母に胸の内を明かしていた事も知って居た。

『ワシはもうアイツ(母)には何も言わん。ワシが叱るとアイツは子供を殺す。包丁で長男(私)を刺し殺そうとした。だからもう、ワシは何も言わん』
と、話して居たようだ。


多くの人達から「大将」と呼ばれ慕われて居た父親でも、家庭に入れば【忍耐】の人だった。

子供心に見ていて解る。



そんな父親に代わって母親と対決していたのが、私だ(笑)


「あんたが寝込んだら殺してやる!」・・何度言われた事だろう。


だが、私にとっては「殺してやる!」よりは、「死んでやる!」の言葉の方が重かった。

その言葉を放たれた時が私の負けだ。試合終了だ(笑)


そんな私は、〔幸福の科学〕に入信するまでは、【母親の憑依霊】と戦って居たとは思っても居なかった。

多重人格者の母親の中の一人だと思っていた。



■とにかく、上記のように、母親は大暴れするだけで無く、人間とは思えないような不可思議な事があった。


例えば【地獄耳】

妻と離れの部屋で「(母親には)困ったものだな・・」と小声で話していたら、玄関に居た母親が、バン!バン!と部屋の仕切りを開けながら走って来た。

離れの部屋と玄関では、(古い家なので)その間に5つの部屋がある。

絶対に聞こえる筈は無いのだが、「アンタ等!今、なんて言うた!」と怒鳴り込んで来た(笑)

私と妻は、ア然とし、いったい何が起きたのかも解らなかった。


そして【千里眼?】

機嫌の良かった母が、地区内にある墓参りに行く度に、帰って来たら目が吊り上がり喧嘩腰になるので、原因を探る為に、そっと跡を付けた事がある。

後を振り返らない母親と、距離も取って隠れながら跡を付けたので絶対に気付かれて居なかった。


墓前に座った母親の口からは、驚くべき言葉が放たれた。

「お父ちゃん、おばあちゃん・・。苦しくてたまらないのよ。助けて」

そうした母親の表情は、見る見るうちに変わって行った。

般若の顔になった。


・・そのトタン!

「わりゃあ!何コソコソしてやがるか!」だ。

絶対に気付かれない位置から見て居たにも関わらず、怒鳴られてしまった(汗)



■そうして豹変する母親は、子供の頃からほぼ毎日見て来たが、納得出来ないのが、【そうした事は、一切、何ひとつ覚えて居ない】ことだった。


大暴れして、家の中をメチャメチャにしたような場合は、3日程度は部屋の隅にうずくまったまま何もしない。

食事すらした形跡も無い。

そして、その3日間の事は何も覚えていない。


私は、学校でも、家に帰ってからでも、隠れた(暴)と戦わなければならなかったのだ(笑)



■正直、私は、そんなわけが解らない、理屈に合わない母親が、怖くて、嫌いだった。

長男としての責任感のみで、家業を継いで居た。


だが、現実には(暴)の多い地域に住んでいるので、同級生達や顔見知りの(暴達)は、随分と居たものだ。

もちろん私は、私の信用に関わるので、そうした業種の者達とは関わらない。

顔を合わせても、お互いに見て見ぬ振りのままだ。




だが、関わりたく無くても、関わらざるを得ない事も何度かあった。

小6の時、のちに(暴)に入った男が、フイに背後から首を絞めて来た。

逃げるに逃げられず、バタバタしていると、スーと楽になり始めた。おそらく柔道で言う「落ちた」状態になったのだと思う。


たぶん、ダラリとなった私に驚いて手を離したのだろう。私は気を取戻した。

もちろん私が、そのままでは居るはずが無い(笑)。

逃げる相手を授業開始のチャイムが鳴るまで追い掛けた(笑)



中1の時、これまた、のちに(暴)に入った別の男が、フイ打ちで私の腹を殴った者が居る。

鳩尾に入り息が出来なかった。

息が出来ない状態なので、戦意喪失以前の問題だ(笑)


しばらくお腹が痛くて、黒い便が続いた。

だけども私は、その事を誰にも言えなかった。

母親に言おうものなら、相手を殺しに行きかねないからだ。


20代になって、胃カメラの検査で「古い傷がありますね」と言われて初めて気が付いた。

あの時の打撃は、私の胃袋を傷付けて居たと知った。



中2の時、他地区をAと歩いて居たら、いきなり路地から出て来た連中が、「ちょっと来い」と言いながら、喉元にナイフを突き付けて来た。


◆因果応報、悪因悪果



■高2の時は、父が亡くなった時、見知らぬ者達が懐に隠したナイフをチラ付かせながら、「借金を返せ!」と脅して来た。

借りても居ないのに、そうして脅して金を取ろうとする輩さえも相手にしなければならなかった。

「父親は銀行以外は金は借りては居ない。もし借りたとしたら必ず借用証書を書いている筈だから見せてくれ」と、粘るしか無かった。

「信用貸しした」と嘘を言うが、絶対に負けるわけには行かなかった。彼等が諦めて来なくなるまで、3ヶ月は要した。



社会人になって、納品先に創価学会の人が居た。

仕事をしていたら、そういう人達は多いので、適当に距離を置きながら接していた。


だが、この人は元(暴)で、暴利を貪り品物を誤魔化す人だった。

(なぜか?創価学会員には
(暴)だったり、繋がっていたりしている人達が多かった。今は知らない


納品した金は、なかなか払ってくれない。

「この次」、「もう少し」と言い逃れが続く。

僅かな金額をもらうのに何回も行かなければならなかった。


ある時、その人とハチ合わせになり、バツ悪そうに挨拶しながらすれ違った。

そしたら背後から「導師!導師!こっちこっち」の声。

なんと!その人は創価学会の導師のようだ。

とても私には、信じられないような光景だった。



そして、私が〔幸福の科学〕に入信するキッカケになったものも、やはり某教団の元(暴)が絡んでいる。

その話は、少し前に書いたので省略するが、私にとっては一番キツイものだった。

自分が脅されるより、友人や家族を脅される事が、どれほど怖い事かと思い知らされたものだ。


・・ま、それが、(暴)や悪魔の特長と言えば、そうなのだが。。




私が幸福の科学に入信したのは、それがキッカケになったに過ぎない。


信頼している客が、(さて、どうしたものかな・・)と考えている私を見て、「どうされたのですか?」と心配してくれるので。。

「あなたなら話してもいいか、じつは・・」と話すと、「それは大変だ!」となった。


で?『じつは僕、宗教を学んで居るのですよ』と言う?

『店長の、お寺は?』

「曹洞宗だけど・・」


『店長、神様を信じる?』

「信じてるよ。子供の頃には天使も悪魔も見えてたしね。信じる以前の問題だよ(笑)」


『それなら話が早い。店長、〔幸福の科学〕って知ってる?』

「知らないね」


『大川隆法って、聞いたことある?』

「聞いたことないよ」


・・のような会話から始まった。

正直な処、人の弱みに付け込んでの宗教勧誘かと思ったものだ(汗)


とりあえず、そうして心配してくれるお客に対しての礼として、幸福の科学の信者さん達に逢って、山口支部に行った。


そして、〔大川総裁〕を見て、聞いて、驚いた。

(こんな人が、日本に居られたのか!しまった!随分と出遅れた)が、正直な感想だった。 





ネット相談では、うつ病で自殺未遂までした人達5人とメール会話をしている内に、全員全快されたが、正直言って、大変だった。


毎日のように「死にたいメール」が届くのだ。

だからと言って駆け付けるわけにも行かないので、元気になれるような言葉をメールで返すしか無かった。


もし、私が、身近で母親の姿を見て体験して居なかったら、そうした事すら出来なかったかも知れない。

そういう意味では、母親の存在は、厳しく私自身を鍛えてくれたと思っている。


だからこそ冒頭で、母親に厳しく躾られた乃木希典の名を出した。



ちなみに私の母親は、確かに酷い憑依されやすいタイプの人間だったが〔幸福の科学〕に入信するなり、ピタリと止んだ。

だが最初に、私の入信を知った母親は、それこそ大暴れもいいところだった。

「わりゃあ(相変らずヤクザ口調)!変な宗教に入って!この近所の人等を巻き込むつもりだろう!ワレの言う事なんか誰も聞くものか!」


「やれるもんなら、やってみい(みろ)!」

この程度の脅しで負ける私では無い(笑)


逆に、ほほう、お許しが出たようなものだな。

それならやってやるよと、ご近所に持っている本を配りまくった(笑)



狂乱した母親の思惑とは大違いで、ご近所からは「この本、良かったよ」のように言われたようで(笑)

やがて何も言わなくなった。


2年後にクリスチャンの妻が入信。

3年後に長男が入信。

4年後に長女が入信する時に、「おばあちゃんも一緒に入らない?と言ってみろ」と長女に耳打ちしていた(笑)


■その時の私には、母親が入信したくても、自分から言えないのが解っていた。

だけども私が言えば絶対に反発する(笑)


だから、長女に誘わせてみたら、その言葉を待って居たかの如く、「そうだね、入ろうかね」と、即座に入信した。


その後は、「お話しかい?」と言うなり、私達より早く支度をしていた(笑)


そうした中で、母親は豹変する事が無くなった。


母親の入信で、一挙に家庭はユートピア家庭へと変わった。



入信後の母親は、人が変わったように(と言うより、こちらの母親の方が本物だろう)穏やかになり、信仰心溢れた余生を過ごした。


晩年になって、3年間、痴呆症になったが、子供達が母親の傍に居てくれた。家族中で、母親を支えて居た。


そして、とんでもない奇跡が起きた。

◆母の極度の痴呆が治った



私にとっては、大変な修行をさせてくれた母親だったが、晩年はそうして穏やかに暮らして、3年前に旅立った。

あれだけ家族を困らせた母親なので、(無事天国へ還っていてくれよ)と思いながらも、一抹の不安は拭い切れなかった。


1年以上経った頃、総裁先生の御法話の中で、「今のところ、三帰して亡くなられた信者さんに地獄に堕ちている人は居られません」と聞いた。

(母親は、無事に天国に還っている)と思えた私は、安堵の思いで一杯だった。


天国で褒められているのか、叱られて居るのか知らないが(笑)

とにかく母親は、【精一杯の人世を過ごした】事は、私も認める。


今は、天国で、父親と仲良く暮らしているのだろうか・・




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