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◆【自分記:第2回】奈落の底から光を見詰めた16歳の責任感


 
 【過去記事移動】 過去、このブログに書いている中で、今でも使えそうな話を移動します。 - 2012年11月20日のブログより。



【親族社長達が逃げた親族会議】


葬儀の翌日から、毎日毎日、親族会議が開かれた。

母親は、朝から晩まで泣き通しで、部屋の隅っこでうずくまったままだ。

夜になって親族達が集まり始めたら、なんとか起上がって親族会議の席にいた。



■議題は簡単なものだが、当時の大人の誰もが、解決策を見い出せない。

それも、それぞれに会社を経営している人達ばかりだ。


問題は、「父の負債1000万円:2013年の時点で1億2千万円以上」だった。

当時の父親には銀行が「借りてくれ」と、いつも来ていたので、父も「その気」になったのだろう。

父親が、新たに出直そうとして工場を建てて、新型機械を導入して、「さあ、これから」と言う時に、居なくなったのだ。



■銀行借入の保証人は、父の姉が嫁いだ先のM家の伯父名義になっていた。

M伯父は、「ワシの知らない内に、こいつ(父の姉)が勝手に印判を押した」と、私達を責め立てる。

M伯母も、「あなた(母親)が、だらしないから、私が印判を押したのだ」と言う。

M伯父も、M伯母も、「すべての責任が、私達家族にある」と言う。


親族会議と言っても、殆どは保証人のM夫婦からの罵声と責任転嫁だった。



■そんな状態だから、工場再建会議とならず、父親の負債から、どうやって自分達の身を護るかの如くだった。

親族の社長達は、ひとり、またひとりと抜け始めた。




【再縁】

その中で唯一、前向きな言葉で、「工場をたたんで、お前はワシのところへ来い」と言ってくれたのが、祖母の従兄にあたる人だった。

その人が、私の祖父母に仕事を譲り、私の工場の原形を創った人だった。


今では、県下で名前を知らない人は居ない程に成長した会社だが、その時はまだ、新しい仕事にチャレンジしている途中だった。

この時が、私の人生を左右する、最初の大きな岐路の時でもあった。

私が「工場を続けます」と言ったので、その人の会社に行けなかったが、あの時そちらの道を選んで居たら、私の人生は別の形になっただろう。



■時代が下り、その会社を、私の娘が仕事先に選んだのも、何かの縁かも知れない。

娘に、3件の就職先を問われたが、「お前の好きな道を行け」と言ったら、どういう訳か?、娘は親戚にあたる会社を選んだ。

娘から「その会社の面接を受ける」と聞いた時、「お父さんが一筆書いてもいいけど、お前が嫌だろう?自力で入社した方が気が楽だろう?」と聞いた。

娘からも、「お父さんは何もしないで」と、キツク言われた(笑)



■面接試験を受けて帰った娘から、社長さんが「この住所の近くに○○という会社がないか?」と聞かれたので、「・・私、そこの娘です」と答えたとの事。


後に社長に「娘がお世話になっています」と挨拶に行った時、『まさか、あんたの娘とはなぁ。ビックリしたぞ。どうして連絡のひとつもしなかったんだ』

『この子はワシの親戚だ、通しとけ。と指示して置いたぞ』と言われる。


「私も一筆書こうと思ったけど、娘は実力で入りたかったようなので、御無礼とは思いましたが黙っていました」

「だけども社長さん、私は私で、自信持って、あなたの会社に娘を送り込んだのですよ。あの子は私の自慢の娘ですからね」


『解ってる、解ってる。お前の娘だからな。ワシが指示しなくても実力で入って来ただろうが、お前も娘も、水くさいって言ってるんじゃい

・・そんな処から、40年前の縁が戻り、深まった。



私が「工場を続けます」と言ったのは、M伯父夫婦に言わされたのだ。

私が工場をたためば、その負担は保証人のM伯父伯母夫婦のところに行くので、無理矢理に工場存続を決められたのだ。

だが私は高2の16歳。町工場を続ける力は無い。



そんな話に割って入って来たのが、神戸に居た父親の従弟だった。

『ワシが戻って工場を続ける』と言う。


私にとっては兄貴的な存在で、嬉しくはあったが、反面、不安も大きかった。

野心ばかりは、大きな人だったからだ。

結局、工場は、その父親の従弟が戻って来る事で存続する事になった。




【仕事のジャマをする2人の大人】

もう一人、問題ある人が居た。

私の話には殆ど登場しないが、私にとっては大問題の人だった。


創価学会の人で、私が小5の頃から働いていた人だ。

(今、こうして書いて気付いたが、この人が来た頃から、私はノイローゼ状態になった。何か関係でもあるのだろうか?)



■仮にAさんとして置くが、私は、どうしても好きになれない人だった。

醸し出す雰囲気も嫌いで、放つ言葉はイヤらしく(いわゆるエロじじい)、ロクに仕事もしないAさんの、傍に居る事すら不快だった。



■私が中学生の頃、Aさんは母親に「ここの子供さんは不思議だ立派だ。机の上に置いてある小銭が、いつまでもある」と言ったようだ。

当り前のことだろう(笑)


だが、
創価学会を学んでいるAさんにとっては、それが当り前の事では無いようだ。

自宅では、お金は勝手に消えるのだろう。

その他、もろもろの事すべてが、私とAさんとでは意見が異なった。



(親父は、どうして?こんな役にも立たない人を雇ったのか)と、疑問ばかりが湧くが、とうとう父親の口から聞き出すことは出来なかった。



父親の従弟、仕事をしないAさんの存在は、その後、私が仕事をする為の大きな障害となる。

両者とも口達者だが仕事はしない。

事務所に行けば「エロい話」をしているだけだった。

それも、若い私の反応を見て楽しんでいるのが、見てとれる。

「あんた等、ふたりともジャマだ!出て行け!」が、16歳の私の本音だった。




【暴力団】


もっと困った問題もあった。

父親は銀行借入しかしていないはずだが、毎日のように「金を貸しているから、返せ」と言う人達が来る。


困った。

その者達は、どこからどう見ても堅気の者とは思えない。

ヤクザか、その類の者達だろうが、ザと上着の中を見えるように広げて、ポケットのナイフを見せ付ける。

脅し屋だ。

(この場面を、沢尻エリカの「時計屋の娘」を見て思い出したので、この話を書き始めた)



■こういう者達への対応は、すべて私がやっていた。

「帳簿を見る限り、父親は銀行借入しかしていません。私も一般の人達から借りた話は聞いて居りません」

「あなた方は、父親と、どういう関係の方ですか?」


「父親は几帳面なので、お借りしているのなら借用証を書いているはずなので見せて下さい」

・・のような事を言い続けるだけだった。


相手は『親父さんへの信用貸しだ』のと、いろいろ脅しながら迫って来るが、私は、その程度の事には屈しない。



■当時の私は、たとえ相手がヤクザであろうと怖く無かった。

だから、(刺すなら刺せ、脅しには屈しないぞ)という姿勢が出ていたと思う。

力勝負では、負けはしないという自負もあった。



■当時の私の同級生達には5~7人の現役ヤクザが居たが、前後の学年を合わせると15人以上は居た計算になる。

私は、そういう中学校に通っていたのだ(汗)


彼等と殴り合いの喧嘩はした事は無いが、「やかましい!」と手を押し出しただけで吹っ飛んだ者が居る。

机をバタバタなぎ倒しながら床に倒れる姿を見ていて、そちらの方が怖かった。

(かかって来るか)と身構えて居たら、なんと私の肩を揉み始め「まあまあ、そんなに怒るなよ。ワシが悪かった」と言う。


翌日から、彼の身辺の者達の、私への言葉遣いが「さん」付けになった。

その男は、最近まで現役で居たはずだが、亡くなったと聞いている。



■そうした学校に居た為か?仕事上でもヤクザと出逢う事も少なくは無かったが、実害を受けた事は無かった。


『父親に貸した金を返せ』と脅しに来ていた者達の素性は解らないが、諦めたようだ。

半年程度対応している内に、次第に来なくなった。


-------------------------------------------------------------

言葉では、簡単のように見えるかも知れないが、そう思う人は、実際にやってみろや!


夜討ち朝駆け、やられて見ろってんだよ!


ひとつ間違えば、修羅場になるかも知れないんだぞ!


1分1秒が、命掛けだぞ!


・・ネット上で、大口叩く者達に、そう言いたい時もある。

彼等の中身の無い大口には、ほんとうに呆れてモノも言えない(言っているが(笑))




【家庭内】


こうした生活の中に居ながら、私は工場を管理・稼働させなければならなかった。


母親は、約1年程度は寝込んだままで、「放って置いたら自殺するんじゃないか」と、神戸の祖父の妹が、わざわざ我が家に泊まりに来てくれた。

私は、このおばさんを100%の信頼をしているし、おばさんもまた同じようだった。


数年前、102歳で亡くなったが、絶対に無事に天国に還っている人だと思っている。



母がそんな状態。

ふたりの大人の男共は、機械も扱えず、役に立たない。

だから私が、やるしかなかった。



朝飯は祖母や祖母の妹のおばさんが、「みそ汁」程度のものを作ってくれるが、私達きょうだいの弁当は、私が作っていた。

晩飯だけは、母親が作ってくれたので、なんとかだが飢える事はなかった。




【工場】


問題は仕事だ。

工場の機械が動かなければ、どうしようもないのだ。


私は、高校の授業が終わるなり、自転車漕いで急いで帰り、工場に入っていた。

毎日のように、20台ある機械のどれかが故障しているので、翌日まで修理して置かなければ女工員さんの仕事が出来ない。



故障原因の殆どは、激しく揺れる機械のネジの緩みから来るものだった。

大の大人の男がふたりも居ても、それらを修そうともしない。

本当に役に立たない人達だった。

私には給料泥棒としか思えなかった。




故障した機械の原因を女工さん達に教えながら、修理そのものは私が手掛けていた。

夜8時まで掛かるのは普通で、明け方まで掛かることもあった。

女工さんが出て来るまでには、なんとか修理を終えていた。



正直言って、辛かった。

毎日毎日、大人でも出来ない事を、やっていたのだ。


日中は平気な顔をしていても、夜、布団に入ると、溢れる思いと涙が出て来る。


「親父のバカタレ!なぜ!死んだ!」

「聞きたい事がある!化けてでも出て来い!」

・・懸命に強がっては居ても、まだまだ16歳の子供だったのだ。



父親は化けては来なかったが(笑)、毎日のように私の夢の中に現れていた。

無言のまま微笑んでいた。


「お父ちゃん!帰って来たの!」

「でも、また、どこかへ消えてしまうのでは・・」の、繰り返しだった。


この間、不可思議な事も夢の中で体験しているが、【その夢は、ただの夢では無い】と知ったのは[幸福の科学]に入ってからだった。



■そんな状態で1年近くが過ぎた。

私は高3になり、卒業後は工場に入るつもりでいた。


そこに、M伯父の息子(私の従兄)が名古屋から帰って来て家業を継ぎ、役に立たないふたりに代わって経理事務を兼務してくれた。

私は、その従兄の堅実な仕事振りを見ながら育った。

私に多大な影響を与えてくれた人だった。



だがやはり、その従兄も機械だけは触ることが出来なかった。

工場を動かせる人間は、当時高校生の私だけという、悲惨なものだった。




【大学】

高3の正月が過ぎた頃になって、会社の名目だけの代理社長になってもらっているM伯父から、『男が多過ぎるから、お前は大学に行け』と言われた。

予想もしていない言葉だった。


■その頃には、妙な取り立て屋も来なくなっていたし、工場の機械も、女工員さん達が自分達で修理方法を憶えてくれていた。

女工員さん達に出来ない部分は、近所の鉄工所に頼んで修理出来る状態にまでしていた。


私は、会社の経営だけに、的を絞れる状態にまでは持って行っていた。




■当面の問題は、工場の経営だけになっていた。

だけども、どうしても新規の事業が必要だった。

だが、頭の硬い大人達が3人も居て、何等の知恵を出す事もなく、日常が終えるだけだった。



■とうとう、高校生の私が、大阪の業者の言葉をヒントに【新規事業】の提案をしたが、大人達3人には笑われるだけで相手にもしてもらえなかった。

特に酷かったのが、昔から居座っている番頭格の創価学会の人だった。

ほんとうに給料泥棒と言っても良いほど、酷い働き振りだった。

1週間のうち、3日は、勝手に休む。


迎えに行けば、朝からベロンベロンに酔っぱらっていた。


私の提案した【新規事業】は、この人に寄って潰されてしまった。



だが私は負けない。

やがて必死で、その【新規事業】に着手した。

大人達でも出来なかったことを成し遂げた。

その後、番頭格の人は、いたたまれなくなって、自ら会社を去って行った。




【松山へ】

私は、大きな問題の殆どは片付けて、大学に行こうとするが、時すでに遅かった。

山口大学の経済学部に入れれば良かったのだが、当時の競争率は16倍(笑)で、とてもとても無理な話だった。



■担任からは「教育学部なら入れるぞ」と言われていたが、必要なものは、「商業・経済」の勉強だった。

殆ど勉強する暇もなかった私だったが、「経済学部」は無理でも、「教育学部」には入れるレベルだったのだ。

同級生達でも、「あいつが?」と思うような者達が教師になっていた。

ご当人達には申し訳ない言葉だとは思うが、当時の教育学部と市役所は、入試と就職先のスベリ止めだった。

当時の世間は、そのように受け止めていたし、そうした自覚を持つ者達も多かった。



■2月になっても、行くところが無かった私は、M伯父伯母夫婦に追い出されるように、松山の夜間大学へ行くことにした。

松山での2年間は、毎日が充実した日々であり、今の私を築く基礎になった。



■だが、松山に居る私から見た山口の暮らしは、まるで天国から地獄に行くような重い重いものだった。


そして、帰り際になって、生涯に渡る皮膚疾患に襲われる。

あっと言う間に全身性のものになり、私は松山赤十字病院に8ヶ月入院を余儀なくされた。


治そうとすればするほど、あせればあせるほど、病気はどんどん酷くなって行った。

とうとう、M伯母に寄って私は無理矢理に退院させられて、師走すの山口に帰って来た。

昭和43年の12月だった。


以後は、【貧・病・争】の極限状態と向き合いつつ、生きて行く私となって行く。


次回は、松山での想い出を少しだけ。




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